<   2001年 01月 ( 22 )   > この月の画像一覧

第16回弘前市都市景観フォーラム①基調講演-1

第1部:基調講演
「ロンドンの公共建築から見るまちづくりの方法、そして、東京都立川市の市庁舎計画の提案をめぐって」
 野沢正光(建築家・野沢正光建築工房主宰)
(司 会)
 それでは、第1部に入りたいと思います。基調講演ということで、野沢さまをお願いいたしております。まず野沢さまのご紹介を申し上げたいと思います。
 野沢さまは、1969年、東京芸術大学美術学部建築学科をご卒業され前川國男氏の下で建築を学ばれた大高正人氏の建築設計事務所を経て、1974年に野沢正光建築工房を設立されております。現在、日本建築家協会環境部会部会長をはじめ、各種委員や母校の東京芸術大学建築学科などの講師をなされており、主な作品としては、阿品土谷病院、いわむらかずお絵本の丘美術館などがあります。これらは建築の各賞を受賞されておりまして、自然エネルギーを利用した様々な環境デザイン手法を取り入れて、環境に配慮した建築物を数多く設計されておられます.
 今日の第1部の基調講演でございますが、「ロンドンの公共建築からみるまちづくりの方法」と題しまして、ご講演をいただきます。ロンドンの公共建築と、それに関わるまちづくりの事例をご紹介いただくとともに、現在、野沢さまが関わっておられる東京都立川市の市民参画型による市庁舎建設計画についてお話しいただくことにしております。
 それでは野沢さま、よろしくお願い申し上げます。

(野 沢)
 ただいま、ご紹介いただきました野沢でございます。どうぞよろしくお願いします。
 昨日ですね、弘前に初めてお邪魔させていただいて、弘前のたくさんの前川先生の設計された建物を見せていただきました。それで昨日は、主に前川先生の設計された建物を、スタッフであった松隈先生と一緒に見せていただき、今日は、それ以前の疑洋風と我々言いますけれども、大工さんが外国人の宣教師やら建築家に従って建てた教会。あるいはフランク・ロイド・ライトによく似た建物やら、それ以前に建てられたいくつもの新進の、稀少に満ちた建築物も見せていただきました。もちろんその中で、それ以前の長い弘前の歴史が造り出した景観やら建築物も結果としてたくさん見ているということになると思います。前川國男さんの建物が、こんなに一箇所にたくさんあって、そのどれもが非常に高い水準の建築作品であって、使いやすくて、よく考えられた建築物であって、今も元気に皆さんに使われていて、しかも非常に品質良く維持管理されているというのを見ながら、たいへん心持ちのよい時間を過ごしたと思っています。その建物の主人公である、所有者である皆さんの建物に対する自然な愛着、いちいち大したものだと思っていらっしゃらないかと思いますけれども、一つひとつの建物をささやかに大事に使ってらっしゃるという感じがとても印象的でした。
 建築家といいますか、設計を仕事にしていますと、やはり最大の楽しみは、人の造った建築を見ることなんですね。音楽家と建築家は、大分、仕事が違いますけれど、多分、音楽家もいい音楽家は、たくさんの曲を聴いていると思います。それから、聴くことが楽しみな作曲家なり音楽家は、いい演奏家だったり、全員がそうかどうかはわかりませんが、いい作曲家だったりする一つの条件かもしれないと思います。つまり、もっと砕けて言えばおいしい料理を作れる料理人は、おいしい料理をたくさん食べている人なんじゃないかなという風にも思います。今回は、前川囲男という料理人が、どのくらいでしょうか、20年間か、30年間、もっと長いでしょうか?初期の「木村産業研究所」からずっと弘前を舞台に造り続けたお料理を、それがどんな味にどんな風に変化してきたのかということを見せて頂いたような気がして、前川建築博物館みたいな、専門家としてはですけれども、そういう楽しみを味わせて頂きました。さっき申し上げましたように、これができたのは、そういう弘前でこういうことが、起きたということはとても稀なことですし、その稀なことには、たぶんその前にチラっと教えて頂いたのですが、外国人の宣教師の方々が、いっぱいこの街にいらしたこと、その方々が、学校の先生をされたりしながら、その外国からの新種の、何て言いますか、いろいろなものをいろいろに取り込む、ここの街の持っていた一種のポテンシャルと言いますか、底力みたいなものが、前川建築博物館のような街に繋がっているんだろうなというところまで教えて頂きました。先程、僕のことを紹介してくださった中に、大高正人さんという名前が出てきました。大高正人さんというのは前川先生の事務所に勤め、「神奈川県立音楽堂」、「岡山県庁舎」や「東京文化会館」などという建築物を主に担当した大変上手な、自分のボスでした人ですから‥・。何て言っていいのかわかりませんが、大変、有能な建築家だった。だった、と言えば怒られますが、まだ元気です。大高さんからいろんなことを教わりましたし、大高さんは、前川さんからいろんなことを教わったんでしょうし、前川さんは、コルピュジエや、レーモンドさんという建築家からいろんなことを教わったんだと思います。そういう「教わる」ということは、一つは手を取って教えてもらうということがありますけれど、もう一つは見て覚える、あるいは真似をして覚えるということもあると思います。特に前川さんの建物というのは、僕らが学生で、上野の芸大だったものですから、上野の文化会館の横を通って、西洋美術館との間を抜けて学校まで通っていました。18歳、19歳の時には、もうすでにそこに、あの大きな文化会館がありました。それを横目に見ながら、ずっと建築の勉強をしてきたという経緯もありますので、前川さんのことというのはとても僕にとっても懐かしいです。大高さんの事務所にいったというのも、一つは前川さんのところは入社試験が難しそうで
したから、弟子のところにしてみようとかと思ったような気もしないでもありません。そのぐらい時代に前川國男さんの仕事というのは大きな影響を与えたんだと思います。僕の芸大の時の先生も、大学卒業の時に、前川事務所に行こうと思っていたと言っていた方が、いらっしゃいました。そういう意味で日本の建築に、戦前から戦後にかけて、特に戦後の建築にものすごく大きな足跡を残された前川さん。その前川さんの建築について、建築家、あるいは建築に関わっていらっしゃる方には、もう重々その辺は釈迦に説法ですけれども、市民の皆さんにも少しでも、どこがおもしろいのか、どこが素敵なのか、あるいは今の建築というのはどんな風に考えたら、あるいはどこが考えられている、というところを探しておもしろいと思うことが、前川國男さんの建築なり、我々が造っている建築なりをおもしろいと思って頂くことに繋がるのかという辺りですね、できるだけ機会をつくりながら、つまりどこのどういう食べ方をしたら、この料理はおいしいのかということになるかと思うんですけれども、なるべくわかって頂くような努力を今後も続けていきたいという風に思っているのです。
 先程、立川のことがちょっと、このタイトルにも書いてありますが、私は東京都立川市の市庁舎のコンペというのに、ついこの間コンペの最終審査に選ばれました。その資料が『新建築』の1月号に書いた記事が、このコピーの中にありますので、今じゃなくていいのですが、見て頂ければと思います。立川のコンペというのは、立川市が、新しい市庁舎を造らなければならなくなったところで公開の設計競技を行いまして、その設計競技の中
で、建築家を一人選んだということなんですけれども、このプロセスが、今までのプロセスとは違っていたんですね。市民の方が、100人委員会という委員会を2、3年前に作りまして、どういう形の市庁舎を造ったらいいかという設計条件みたいなものを、行政の方が作るのではなくて、市民の方が作ったんですね。その設計条件を前提にコンペが行われ、コンペの第一次審査というので、3人が選ばれた後に、市民の方々のグループが対象になるワークショップを、3人の建築家が、各々に開いて、ワークショップによって出た市民の方の意向を反映するかたちで、第二次案を作るみたいな、非常に手間の掛かったコンペだったわけです。そのコンペを経験しながら、先程の話に繋げますと、今まで前川先生の時代の公共建築なり、建築の造り方というのはどちらかというと、当然ながら、市民である我々の問題でもあったと思うんです。それ程市民が、立川のようには参加するという状況ではなかったと思うんですね。今になってくると市民の方々がいろんな形で一つひとつの公共建築を造るところ、場合によっては維持していくところ、そういうところに登場してきて、積極的に自分が当事者として、自分が主役として責任を持って話をしていく、あるいは関わっていくみたいなことが、始まっているんだなという感じが、立川のコンペの中でしていました。
 コンペそのものは、これから実際の計画の段階に入りますものですから、今後どうなるか、いろいろな難しい問題やら、ややこしい問題やら、あるいは楽しい問題やらをはらんでいるままで、まだ入り口に辿り着いたばかりですから、何とも言えないんですけれども…。立川はそんな具合に動いています。ということを一つの事例にしながら、建築なり、今回のこのフォーラムのテーマである環境、あるいは景観なりは、誰によってどうやって維持されているのかということが、とても大事になってくる。これからはますますそれが、当事者である市なり、自治体の一番の当事者である、市民の皆さんの双肩にかかっていると言いますか、皆さんの参加と言いますか、皆さんの当事者としての力量に、かかってくるんではないかな、という気がとてもします。そこはとても実はおもしろいところなんじゃないかなという気が僕はしています。
 立川は、僕の半分、地元みたいな高校時代を過ごしたところですので、僕にとっての地域社会みたいなところでもあるんです。地域社会で、その地域社会のことを一番良く知っていらっしゃる方々が、例えば、外からの地域社会の見方などを鏡のように使いながら、そこの地域が持っている底力なり、宝なりを再発見する。あるいは、それがあることをおもしろいと非常に客観的にもう一度思う。みたいなところから景観なり、環境なり、あるいは、それの一つの要素である建築なりは、少しずつ良くなっていくんじゃないかと。人がどう見るか、ということを怯えながらではなくて、人にどう見えているか、ということをちょっと自分の髪の毛を直すように考えてみること。それが少しずつ街なり、建築なり、そこに建っている他人の建築に対して興味を持つこと、そういうことが、とても大事になってくるのではないかということを、立川の流れの中でも思っています。僕自身は、建築の設計を始めて、数十年経つわけですが、数十年経ちながら、やっぱり、ある時期の自分で設計した建築に、いくつもの出来の悪いところ、先程の料理で言えば、味の悪いところを後で発見したりします。それはいつでも誰でも、だいたいそうなんじゃないかと半分居直り気分で思うんですけれども、30年前に常識だったことが、30年後には、とてもそれは問題の多いことだよという風に思ってしまう。あるいは、そういうことになってしまうというのは、たくさんあるかと思います。建築も今、供給されている建築というのと、30年前に建築に課せられた要求というのは、違いがたくさんあったと思うんですね。その中で、市民の皆さんが、それは建築家を含めてですけれども、自分のこととして、あるいは自分の興味のあるおもしろい対象として街のこと、景観のこと、それから建築のことに関わって頂くこと、造ることばかりではなくて、〈立川の場合、今造る段階ですけれど)、造る段階から、運営する段階にも踏み込んで頂くことというのが、実際にとても大事になっているんだろうなと思いますし、このことはとてもおもしろいことなのかもしれないという風に思っているんです。先程申し上げましたように、話が散漫ですが、僕は建築を見ることが、下手すると造ることよりも好きという感じがしないでもありません。これは、人の造った建築物が、先程申し上げたように、どんな風なつもりでどんな風に、その時代、何を考えたのか、誰がどんな風に関わったのか、いろんなことが、そこからわかると言いますか、想像されるということがあるからです。先程、お話にあった、タイトルにあります「ロンドン」というのは、たった一つの建築についての話なんですけれども、つくづく感心しながら、僕たちもきっと近々こうなるだろう、こういう社会、ロンドンの全部が良いわけじゃないので、良いところを見ている、隣の花は美しいみたいな話ですから、それだけのことではあるんですけれども、ちょっと絵を見ながら、お話をこの後は続けたいと思います。ちょっとお願いします。
 これは、前川國男さんの「神奈川県立音楽堂(写真1)」という建築物です。1954年だったと思うんですけれども、戦後すぐ、東京、横浜という一番ひどい戦災を受けたエリアの話ですから、焼け野原の戦後、まだ5、6年というところで、内山さんという神奈川県の知事が、疲弊した状況の中で、文化的な施設こそ大事だという風に考えられて、鎌倉の「近代美術館」これは坂倉準三さんという建築家ですけれども、それと「神奈川県立図書館と音楽堂」という建物を建てることを決意されます。周りは想像すると、たぶんバラックが建っているだけという非常になんと言いますか、それこそ文化も何も、おいしいカレーの話も何もない時だと思います。その時に、この建物が建てられるわけです。この建物は、そういう意味では、前川さんのごく初期の代表的な音楽堂であって、その建物が、弘前の「市民会館」にも繋がって、ここでのたくさんの勉強と言いますか経験が、あの素敵な弘前の本当に良い建物、弘前の「市民会館」に繋がっていると思います。上野の文化会館にも当然、繋がっている建物です。
 十数年前、十年ちょっと前ですかね、バブルの後半に、この建物はあまりにもみすぼらしいから壊そうという話が出まして、少しこの建物に愛着のある方々の運動やら、あるいは経済的にバブルが弾けて、新しい大きな投資が難しいということもあって、現在も健全に使われていますけれど、そういう意味では50年以上経って、しっかりと今も使われている建物です。前川さんの傑作の一つだという風に僕は思っています.
 これがどこかの建物と似ているという気がしますが、入り口の下のモダンな建物、我々の現代の建物の典型ですけれども、余計なものがなく、ホールの下のスペースが、そのままの形でロビーになっているという空間を見せているところの写真(写真2)です。こういう形で最小限の材料で最大限の品質と言いますか、クオリティを造っていこうというのがモダニズムの考え方、近代建築の考え方なんです。よく考えると、今の少ない資源で最大の品質を得ようとする持続可能な社会みたいな言い方がございますけれども、それもここら辺のところに、一つの考え方の根拠みたいなものが、あるんじゃないかなと僕は思っているんです。たくさんの余計なものをくっつけていくということは、やっぱり資源の無駄遣いだったり、あるいは環境への悪い働きかけだったりするかもしれないわけです。モダニズムは、だからそういう意味では、非常に清貧と言いますか、潔い建築であったのかもしれません.それが、ある問題をこの当時は、まだはらんでいるというのは、なくはないわけです。
 ここからロンドンなんですが、大高正人さん、さっき名前が出た僕の師匠にあたる人ですが、大高正人さんが、神奈川の音楽堂の仕事に関わってらっしゃいます。大高正人さんは、初めてやる音楽堂をどうやってやろうかという風に悩んだ時に、実は印刷物として公開されていた、ロンドンの「ロイヤルフェスティバルホール」の音響の計算の方法とか、「ロイヤルフェスティバルホール」について報告された、たくさんの公開された情報、資料ですね。それを製図板の横に置きながら、それを一生懸命読みながら造ったんだよ、と言っていました.その「ロイヤルフェスティバルホール」という建物がこれ(写真3)です。ロンドンの川の横にこうやって建っています。これは、僕自身が撮ったスライドです。「ロイヤルフェスティバルホール」というのは、実は個人の建築家が設計した、建築家の名前はわかっているんですが、僕自身が忘れているんです。実はロンドンの、いわゆる市の営繕が設計した建物と考えていいと思います。たくさんの建築家なり、技術者、エンジニアがそのチームに参加しています。たぶん臨時に、そのチームのために人を集めて、建築家を集めて、エンジニアを集めて、チームを作って、造ったんだと思います。この建物は、そういう経緯を含めて、構造のこととか、音響のこととか、計画のこととか、当時、建物の進行と同時に情報になって出ていきました。つまり、公開的に造られ公開的に情報が提供されたわけです。出来た建物がこれです。この建物が、今行って見ますと次のような状況になっています。
 これ(写真4)は、先程の「神奈川県立音楽堂」の縁の下にあたるところと同じようなところです。つまり、これは「ホワイエ」って言ったりしているんだと思うんですが、入場券を買って入る場所ではありません。無料の場所です。無料の場所と言いますか、縁の下ですから、通常でいったら、誰も居ないガランとしたところです。しかし、ここではこんな具合に毎晩なっています。上で音楽会をやっている時は、たぶんやっていないと思うんですが、ちゃんと何回も通ったわけではないので、半分くらいはあてにならない情報ですけれども、週末とか、夕方に行くと人がいっぱい集まって、暖かいです。バーがあり、バーと言っても、売店があります。売店でビールや、何やら売っています。横にはCDショップがあったり、本屋があったりします。そこに何時間居ても、無料なんですね。要は音楽堂が、ファンがこの建物についてもらうために、無料のコンサートを、ずっとやり続けているんです。ジャズコンサートが、主だと思うんですけれど、要は私が、ここでやってみたいという人に、オーディションのようなことをやりながら、左の端にチラっと見えていますけれども、ずっと長時間にわたって、音楽をやり続けてくれています。電気が点いて暖かいです。別にバーのビールを買って飲まなくても、暇であればここに座ったまま、ずっと半日でも、半日かどうかわかりませんが、長時間居ても全く自由だと。そういう運営をしています。そういう場所っていうのは考えてみると、人が寄り集まって快適に自分の都合で、つまり喫茶店なら、必ずお茶を買わなくてはいけないわけですが、そうではなくて、何時まで居たって構いませんという場所を公共空間の中に持っているわけです。これはたぶん、これから僕たちが、欲しい場所だと僕は思うんですね。無料の場所。無料でずっと居られる場所。これが本当は公共空間なんじゃないかなという風に思いました。こうやってここに座っている人を見ますと、ちょっと高齢の夫婦が、ただずっと1杯のビールを飲みながら、世間話をゆっくりするともなく、しながら二人で座っているとか、もうそろそろ、こんなことを言うと怒られますけれど、結婚したらいいのにと思うような女の方が、ずっと側のサンドウィッチのようなものを買って食べながら、快適にビールを飲みながら読書していたり、そういう人たちを見た記憶があります。こういう場所を、実は運営しているのは、この「ロイヤルフェスティバルホール」を運営しているアソシエーションなんです。要は直接の行政ではないんですね。市民が作った、ここを運営する一種の、もちろん儲けているわけですが、つまり給料もとっているわけですし、スタッフでもいるわけですけれども、みんなで作った一種の「ロイヤルフエスティバルホール」を運営するアソシエーション。協会、組織みたいなものが、これも公開的に、たぶん経理等を、情報を公開しながら運営されているんだと思うんです。つまり、株主に配当しているわけでもないし、全く税金を投入してやっているわけでもない.もう一つの公共の在り方みたいな、公開された公共の在り方みたいなものが、ここにはあるんじゃないかなと思います。つまり、一生懸命市民にサービスすることによって、その組織が、経済的にもある程度儲かる、というような仕組みができているのかなという風に思います。
 これは、奥でジャズを吹いているのがわかります。先程の「神奈川県立音楽堂」と同じように、天井の上が段になっているのは、上がホールだからですね。ここにいる、こんなに大勢いますけれど、これはレストランでも何でもなくて、要はみんな無料でいるという、そういう場所だということ。こういう場所がいくつかあるんだということを、いいなと思ったわけです。
 今の「ロイヤルフェスティバルホール」というのは、先程、申し上げましたように「神奈川県立音楽堂」が出来る、1952年の2年くらい前に竣工したんだと思います。つまり、情報が出て、すぐにその情報を大高さんやら、前川さんは必死で読み解きながら音楽堂を造ったということになるわけです。これは、とある本からとったコピーですけれども、「ロイヤルフェスティバルホール」も戦後5年ぐらいに竣工していますから、出来た途端の写真は、今と違うんですね。これはどうも、ちゃんと読んでいないんですけれど、お金がないので、このファサードは一種のプレートのようなもので、とりあえず第一次、1950年の姿はこんな格好だったようです。つまり、建てた時から、出来上がった建物として造ってないんじゃないかという気がします。つまり、造らなきゃならないところは造るけど、お金のないところは、一応仮に造っておこうね、みたいな建物っていうのは、いつ完成するのかな、いつ竣工するのかな、という話にもっていきたい話として、コピーをとったんです。出来た時は、こんな顔でした。これは、裏側なんですけれど、川の側じゃない反対側なんです。
 これが川の側です。竣工した時の、西側の川に面したフアサード。こちらも、こんな格好で出来上がっています。
 これは同じ本からとった最近の写真です。前にデッキがついたり、いろいろな格好で、この建物を巡る、周りの環境も変わっています。それにあわせて建物は大きく、1960年ぐらいに20年経たずに、大改修がされています。つまり、50年代に竣工した建物を、そのまま使っているとも言えるんですけれども、大事なところはそのまま使いながらお金がなくて出来なかったところを直し、それから、その後で気がついたことを大きく変更しています。
 これはその本に載っていた、ちょっと素敵な女の人がお茶を飲んでいる写真で、本当はもっといい写真なんです。要は当時から、この建物はたぶんクライアント、クライアントと言いますか、ここで楽しむ人たちに対して、非常に丁寧な設計をしているんだろうなという風に思いました。十分な要求される楽しみをここで十分、ここを使う方々に味わってもらおうというその雰囲気は、この照明器具(写真)一つからいろいろ出ている。お洒落をしてきている女の人にも出ている、と思ったものですから入れたんです。ちょっとはっきり写っていないので、本当はやめておいたほうが良かったかもしれません。
 
by noz1969 | 2001-01-03 14:55 | 第16回弘前市都市景観フォーラム

第16回弘前市都市景観フォーラム①基調講演①-2

これが、64年頃、2年間くらい、たぶん閉鎖して大改修をやっているプランです。ビフォーアフターなんて僕はやめろと言ったんですけれど・‥、書いてあります。要は40年、35年くらい前の大改修のこれは、グランドフロアーと言いますか、一番下のレベルの改修です。細かいことは、どうでもいいんですけれども・‥.例えば下の方とか、それから上の方に大きなプランの変更、これは中のプランも大幅に変更しています。たった十数年
で建物の要求を見直して、大きな変更をして使い続けることに対応しているということです。
 これはちょっと図面が、小さくなっていますけれど、あきらかに真ん中、ちょっと見にくいかもしれませんが、階段のあるところなんかを同じだと思って見ていただくと、随分と下側に大きく出っ張っていることとか、上側にも随分、大きく変形しているということがわかると思います。
 これも、例えば水廻りだとか、スタッフの部分だとかが、大きく変更されています。こういう格好で、その時にあわせて建物というのが、例えばある時期に、先程、申し上げましたように、その時代には、仕様がなかった技術的な問題、解決の限界みたいなものを、もう一度見直すとか、あるいは使い勝手の上で、あるいは予算の上で、ここまでしか出来なかったものを、ある時期にきちんと見直して、1年とか2年とか、閉鎖して、この建物
をもう一度その状況にあわせたものに切り替えていく。つまり、何て言うんですか。増築したり、改築したりすること、日本の木造建築のように、実はここの公共建築というのは結構しているんだなという気が僕はしたわけです。
 それで、これが読めるといいんですけれども「ロイヤルフェスティバルホール」の50年の誕生日の、これからどういう風に、この先、どうするかという市民に向けたパンフレットの表紙です。つまりここには、なんつまり、みんなて書いてあるか。“People's Place”のお城を21世紀に使っていくために、もう1回リニューアルしますというパンフレットです。これは、「50年たったんでしっかりやりまっせ!」というパンフレットの表紙です。後ろにミレニアムの大きな観覧車があったりするのが今だという、2000年ですということを表しているんです。
 これがそのパンフレットを拡げたところです。これは一番初期に博覧会を上でやっている時に「ロイヤルフェスティバルホール」が出来た写真、それから今度どうするかという写真です。模型の写真です。大きくは、この建物は驚くほどに、今度は、いわゆる鉄道線路との間にサポートする施設を大幅に増築したり、座席のイスを全部取り替えたり、大変な手間を掛けて、また、数年掛かりでこの建物は生まれ変わって、これからあとの50年
に対応します、ということなんですね。その説明が、永遠としてあるパンフレット。これが、先程のみんなが集まる縁の下のロビーのホワイエのところに置いてあるわけです。この横には、新しいイスも置いてありました。今度あなたたちが座る、「みなさんに座っていただくホールのイスは、これでございます」というのが置いてあって、「試しに座ってみてください」数年先の話なんですが、もうそんなこともしてありました。
 これが、その記念にBBC、イギリスの放送局が出したCDですね。あのファサードのところが、実は2つの写真が合成されていまして、出来た途端のファサードと、その後のファサードが合成されて50年の時間を表しています。そして50年間にどんなコンサートがあったかのダイジェストが、CDの中に入っています。これをみんなに売るわけですね。それからこっちの小さいパンフレットですね。これはここに“Donation’s Form”と書いてありますけれど、これがくせ者です。要はですね、「こういうことをやります。みなさん今後も楽しみにしてください。縁の下のコンサートは無料で、今後もずっとやります。無料で居てもずっと暖かいでっせ。とても素敵な音楽会をずっとやっていきます。お金ください」そういうものなんですね。「よしわかった。時々行っているし、バーで長時間、とぐろ巻いているし、まあそう言うんなら」という人を狙ってですね。つまり、お金を払ってください、というところまで含めて参加型なんですね。「よしわかった.じゃあ何万円出してやろうか」という人は、「俺、あのロイヤルフェスティバルホール、“People's Place”は、俺のものだ!」と一部思うかもしれませんですよね。こういう格好でお金を払うということを含めて、あるいは、ここでアソシエーションのメンバーになってこの運営に参加しようということも含めて、この「ロイヤルフェスティバルホール」は市民のものになって、市民によって運営されて、そこで起きている経済的なやりとり等は市民に向かって公開されている。これからどういう形でこの建物が改修されるかも、詳細なこういうパンフレットなり、何なりが用意されていて、市民がそれを知る。あるいは、市民が直接それに参画する。金を払う。そういう仕組みを非常に、何て言いますか、手厚く用意しているということを、僕は、この仕組みが快適だなと思ったわけです.
 今の“Donation's Form”にくっついている、後ろの方についている、一番裏の赤いページについているところです。ここで公開されている、この情報にもちょっとびっくりして頂きたい。建築って姉歯問題なんかもありますから、最近は構造家というのがいるんだということはお分かりかと思います。今度の改修に参加する主な責任者、エンジニアたちのスタッフはこういう人です。というところまであの小さなパンフレットに書いてあります。“Architects”は、こういう名前の人ですね。“Auditorium Acoustics”が、こういうところです。それから“Theatre Consultants”は、この人たちです。“Quantity Surveyors”品質の、何て言うんですかね。調査、検査する人たちはこういう組織です。それから“Services Engineers”主に設備系ですね。暖房とか冷房とか空調とか。他にもあると思いますが、トイレの水とか。それはこういうところです。“StructuralEngineers”これは姉歯さんみたいな人ですね。これは、こういうところです。“Fire Engineers”この辺がすごいですね。“Arup Fire”と書いてありますけれど、僕たち建築家の中では、世界で一番有名なコンサルタント会社です。あらゆる、この2行目から下は全部できる総合コンサルタント事務所が、‘Arup”という人のつくりあげた組織なんですけれども、そこは火災についての技術的なコンサルタントとしてだけ入っていますね。それからその下に、まだ2つもマネージャーとコンサルタントがいます。建築というのは、これだけ、少なくとも、今度の改修工事に伴って、主に登場するチームの構成メンバーだけでもこれだけいます。ということがあの小さなパンフレットに書いてあります。こういうことが、僕たちの、つまり逆にいくと、こういう人たちの誰かが問題を起こした時に、そのことが大きな問題になる。その大きな問題になるわけですが、それはどういう構造によって、何が起きたのか、ということを隠蔽せずに、きちんとこの段階からわかるようにしてあるというのは、たぶん半世紀前に、ここで言えば、“Auditorium Acoustics”この辺をやった50年前のエンジニアたちが、前川さんの事紡所の人が、必死に読み解いた情報を公開してくれたように、また、この人たちもきちんと情報を公開してくれるでしょう。その中ではやっぱり、それを見た人、それを審査した人、あるいは、それを良しとした人にも、応分の責任というのは、当然発生するわけですね。逆に言うと、その応分の責任というのは提案するカでもあるし、おもしろがっている社会の中では楽しみでもあるかもしれないわけです。自分がそこに関わること、自分がそこである判断をしたということ、それがうまくいった時には、当然すごい大きな手柄になるわけですから、僕がいることによって、あそこで僕がああいう風に提案したんだよ、みたいなことというのは、当然出来たものに対しては、自分自身の非常に充足した満足でしょうし、何もマイナスの話、内緒にしておいてほしい話ばかりではないわけですよね。それも有名な建築家一人が「僕がやりました」という話ではない。そういうことが建築の、ある意味では、みんなでつくるおもしろさであって、このみんなでつくる、デザインチームのみんなという以外に、今申し上げたような形で、こういうパンフレットを作ったり、あるいはCDを売ったり、あるいは、もっと言えばビアホール、というかビールを売るカウンターがあって、日々、そこの公共施設に人々が訪れてきて、そこで日々、人々が交流している。そういう場所を造っているということ、そのこと自身がたぶん全体が、非常に快適に、難しい問題もいっばい、実はあるのかもしれませんけれど、公開されている。それから引き受けられている。みんなが当事者である。そういう中で例えば、大きなリスクも、実は上手に回避されているんじゃないかな、という風に僕は思うんですね。本当言うと、その立川モデルも基本的には、今後のプロセスは、ずっとワークショップ等を通じて公開されていくことになります。日本の社会の中でこういうやり方が、そんなにまだうまくいっているわけではないですから。何て言いますか、予想通りうまくいくかどうか半分わかりません。しかし、みんなが手探りながら、当事者として参加し、当事者としてそのおもしろさの一端を自分が担っていくこと。それはもちろん責任という言葉でもあるんですが、責任を担っていくこととも言えるんです。責任というと日本語の責任というのは、日本人ですから、日本語でいいんですけれど、何か責任というと、あまりうれしくないニュアンスがあります。ありますよね? 当然、何か悪いことをした時の用語ですから・‥。だけど、たぶんですけれど、社会的任務、社会的責任、例えば行政の人に対して、みんな社会的責任があるだろうと言う。その「社会的責任」という時には、何か悪いことをした時という、そんなニュアンスがありますけれど、それの訳語の前の英語は「ソーシャル・レスポンシビリティ」と言うんだと思うんですね。「レスポンシビリティ」というのは、もっと短くすると「レスポンス」。「こっちに行ったら、こっちに返る」というのが「レスポンス」で、「責任」というのは、「こっちに行った時に、悪かったらこっちに返ってくる」というのが「責任」なんです。「レスポンス」は良い時には「手柄」として返ってくるのが「レスポンス」ですよね。必ずしも悪い言葉ではないと思うんですよね。「社会的責任」、「レスポンシビリティ」。だから、みんな任務があって、うまくいくようにしようね。だけど、うまく行かない時どうしようか。うまく行かない時はみんなでうまく行かなかった責任を、悪い方の責任を、「レスポンシビリティ」をみんなで背負うね、と言わないと、悪いかもしれないことが起きることは一切できなくなる。みんなでしなくなる。みんなでしなくなると、新しいことは、みんな誰もしなくなる。つまり、困ったことが起きることはしないという風にすると、新しい世の中は全然来ない。たぶん50年前にこの建物の情報を公開したのは、なぜかというと、たぶんいろんな人が関わって、いろんな手順を踏んで、いろんな風に考えました。どうでしょうか?と言った時に、いろんな人に責任が分担されるからだという風に言えると思うんですね。ちょっと言い方が、面倒くさい言い方で申し訳ないんですけれど、みんなが当事者になると、おもしろいことがきっとできる社会になると僕は思います。数人で影に隠れて、一つのことをやってしまうと、後でそこに問題が起きたときに、その数人は必死になって隠蔽しようとすると思うんですね。それからそういうことが二度と起きないようにするためには、冒険をしなくなると思うんです。だけど生きている以上、どんなお料理、さっきの話、たとえで言えば、くどいようですけれど、お料理人にしても、新しい味を作ってみたいと思う。建築家も新しい、今までの問題を、いくつかあった問題を片づけてみたいと思う。片づけてみたいということは一つの冒険ですね。そういうことをどうやったか。誰がいいと言ったか。「おもしろいね」と言ってくれたか。それが最後に「おもしろいかもしれないね」と言ってくれるのは、やっぱり、最後の所有者である、市民のみなさんなんだろうな、という風に思います。今回も立川で、僕はそれをずっとやり続けなければならないわけですけれど、立川では、ついに「そういう風にしてよ」と言う市民グループが建物の主人として現れて、そういうことになったわけです。このロンドンのケースというのは、たぶん我々よりも何十年か、何百年か先に、市民という主人になって、いろいろ苦労しながら主人を、慣れない主人をやり続けてきたイギリスのシチズン(市民)たちが辿り着いて、これが一番、まあまあうまくいく方法だろうという風に思いながら、やっている方法なのかなという風に思うんですね。我々も是非、これからです。これからは、今まであるストックをどう使うかということを含めて、市民のみなさんが当事者として、そういう言い方は変ですけれど、今ある市民のみなさんの資産なり、風景なり、建築なり、みんなそうですけれども、弘前市の主人は弘前市民、当
然ながら弘前市民であるわけで、税金を払っているみなさんがご主人なわけですから、ご主人としての手柄と、ご主人としての応分の「レスポンシビリティ」を、あるいは、興味を持って頂くことを含めてですが、それぐらいでも十分なんだと思います。関わって頂くこと、おもしろいと思ってくださること、そこからとても素敵な弘前市というのが、ものとしても、組織としても、仕組みとしても現れて、ここは何百万人の人たちが、年間余所の町やら、市から遊びに来たり、観光にいらしたりする。大変そういう意味で、日本中から注目されている街でもあるわけです。そこの多くの、余所から来る方々にも感心させてしまうような、そういう街にきっとなる。もうなっているのかもしれませんけれど、十分そういうポテンシャルと言いますか、底力を感じるし、前川さんの建物を、こんなにたくさん建てたということ自身が、その時の市長さんなり、何なりの大きなカなのかもしれませんけれども、この後ろにいる、本当のこの市の、弘前市の主人であるみなさんの財産を、みなさんがつくられたんだ、という風に僕は思ったわけです。ロンドン、ヨーロッパが何でも素敵なわけではないんですけれど、やっぱり建築家によく考えさせるカというのはお客にあります。お料理人によく考えさせる力も、たぶんお客にあると思います。お客が「ダメだ。ダメだ。」というと建築家は、たぶん育ちません。「カネだ。カネだ。」と言っても、たぶん育たない。建築家をやる気にさせる、たくさんの宿題を考えてくれるようにそそのかす。そういうことを建築家に対して、あるいは行政に対して、みなさんのサーバントに対して、みなさんがそういう風に上手な主人になってくださること。それは、例えば今あるみなさんの財産。くどいようですけれど、前川さんの建物を含めて、ここにあるたくさんの景観的な財産ですねみなさんが上手なご主人として今後改修したり、あるいは元気にしたり、あるいは保全したり、多様な方法で活かしてくださること。先程、楽屋では、「自宅にある、お爺さんが買ってきた骨董の価値は息子にはわからない」という話をしていたんですが、やっぱり息子も「なるほどお爺さんこんな物買ってきたのか。なかなか目利
きだね。」と、そういう息子になることも十分可能なんだと思いますし、そうなった時には、次の快適な息子の生活というのは、その骨董を素材にしながら始まるんだろうと思いますので、是非とても大きな資産を、財産を持った弘前市が今後、とても素敵にみなさんと一緒に、素敵な当事者たちによって、素敵に運営されることを・・・!選挙の演説みたいになってしまいましたけれど、期待したい.私が話したかったのは、そういう意味では、主人であるみなさんの所有物である公共財に、みなさんが先程の縁の下の経営者のように関わる可能性というのは、たくさんあるんじゃないか。そうすると、その場所はもっと活き活きするんじゃないか。よくわかりませんけれど、行政が部分的にNPO等に運営を任せることとか、それからたくさんの市民組織が、行政に代わって別の形で、いわゆるコミュニテイ、地域社会を支えることはたくさん起きてきているわけで、そういう中で公共建築そのものは、大きく使える財産として生まれ変わったり、変化したりする可能性を持ってるんじゃないかと。行政の方は、それでいいというかわかりませんけれど、そういう気がして…。「ロイヤルフェスティバルホール」は前川さんとも縁のある建物であったわけで、このお話をさせて頂こうと思って今日お邪魔したというわけです。僕はこの機会にたくさんの弘前の建物を見せて頂いたこと。見ることは料理を食べることのように楽しみだと申し上げましたけれど、大変たくさんの前川さんのお料理を食べさせて頂いて、本当に今回お邪魔して良かったと思っています。どうもありがとうございました。

(司 会)
野沢さまには、建物をどのように維持していくのか、またどのように使っていくのか、そんなことについて、将来に繋げていく仕組みといったものについてお話を頂きました。いろいろな今後の活用の仕方等についてのヒントがあったような感じがいたします。せっかくの機会でございますので、若干ご質問をお受けしたいと思いますが、いらっしゃいますか。何かご質問ございませんか。
ないようでございます。また後で、野沢さまには、対談の方にもご参加いただきますので、その時また、質疑の時間を持ちたいと思います。それでは、若干休憩させて頂いて、次の準備をさせて頂きたいと思います。休憩に入らせて頂きます。
by noz1969 | 2001-01-03 13:34 | 第16回弘前市都市景観フォーラム

環境と建築

20世紀の終わりから21世紀にかけての私たちの時代、それを特徴付けるものが「産業革命」から今日まで、たった200年ほどの間の急速な技術開発と資源の浪費、それによって大きな問題となって現れた地球環境についての深刻な問題にあることはいうまでもありません。

1972年には早くも「ローマクラブ」*1が地球のエネルギー使用の急成長に警告を鳴らすレポート「成長の限界」を発表していますし、1973年には中東戦争によって石油の供給が止まり生活用品が枯渇し各地で品不足に拠るパニック、いわゆる「石油ショック」*2を経験しています。1992年、ブラジルのリオデジャネイロに様々な人々が集い地球環境について話しあう「地球サミット」*3が主催者も驚くほどの規模で開かれ、NGOなど草の根の人々の参加も極めて大規模で、この問題について広範なひとびとの危惧の共有が示されました。それを受け翌1993年、UIA(国際建築家連合),AIA(アメリカ建築家協会)共催の世界規模の建築家会議も開かれています。そして1997年12月、京都で地球温暖化会議,正式な名前は「国連気候変動枠組条約第3回締約国会議COP3」*4が開かれ温暖化ガスの削減がいかに差し迫った課題であるかが話しあわれました。激しい議論の末に一部の国を除き各国がCO2削減目標の設定をし2005年二月になり参加各国の批准によりやっと発効しました。ちなみにこのとき、わが国は1990年を基準として2010年までに6パーセントの削減の約束を正式にしたことになります。しかしながらわが国においては1997年から今日までの10年ほどの間に約8パーセントのCO2発生の増加を見ているといわれています。今日に至ってはなんと先の6パーセントとあわせ約14パーセントの削減が必要という事態となっているのです。これは週に一日まったく一切の活動を止める、一切CO2発生が無いという状況を作り出すことが求められているということになると考えるべきことなのでしょう。
私たちの時代は地球規模の環境にかかわる諸問題が避けて通れないテーマとして目の前に現れた時代と考えることが出来るでしょう。少しずつであっても私たちはさまざまな分野でこのことのついて工夫と努力をすることを求められているのです。
私たち建築家が直接かかわる建築生産と建築の運営分野のCO2発生がこの国のCO2発生量の00パーセントを占めることから私たち日本建築家協会の建築家も省資源省エネルギー建築を積極的につくって行こうとしています。そして実務のほかに事例集の出版、建築家に向けてのメッセージの発信し*5、また環境につき優れた取り組みをしている建築を「環境建築賞」*6として顕彰する制度を作るなど、さまざまな取り組みを通しこれからの建築家の任務と仕事の姿を模索してきました。

このことについてはもちろん建築にかかわるすべての人々つまり社会の大きな合意があることがとても大切でしょう。建築家自身の取り組みももちろん重要ですが、彼に仕事を発注するクライアントがそうした合意を共有する、そんな社会をまず作る必要があるのです。
様々な分野の人々つまりすべてのひとびとが環境を考えることをポジティブに日常のものとすることがこの問題の前提ということになると思うのです。
今日まで各国で様々な提案がされ、様々な取り組みがされてもいます。特にヨーロッパ諸国はこの問題に敏感であり社会的合意の構築のための試みも活発のように見えます。ヴッパタール研究所はドイツのこうした問題を仕事のひとつとするシンクタンクとして著名ですがそのヴッパタール研究所*7が1985年に発表した「ファクター4」というレポートに私たちは注目しました。そこでは様々な活動に伴う資源使用量とそれに拠る快適さの関係についての興味深い提言をしていたのです。資源使用量が大きければ快適がもたらされるわけではないこと、資源量とそれによってもたらされる快適さの間の関数を物差しにしたらいい、というのがこの提言だったのです。資源使用量とはそれにより発生するCO2量と考えることが出来るでしょう。より少ないエネルギー量により作られる「軽い建築」、断熱気密など建築の性能を向上させその上自然エネルギーを上手に使うなどする「エコ建築」、そうした建築は今日までの建築が考えてきた道の上にありそうに思えます。少なくとも20世紀の建築は「軽い建築」を目指していたのですからこれまでの思考の先に答えがあると考えていいということかもしれないと思うのです。片付けるべきは運用にエネルギーのいらない、しかも快適な建築です。これについてもさまざまな手立てが現れています。

「サステイナブルSUSTEINABLE」、という言葉も、主にヨーロッパの人々の議論の中で使われ始めた言葉のようです。ブルントラント、デンマークの首相であった彼女が委員長を勤める「環境と開発に関する世界委員会」が1987年発表した「地球の未来のために」で始めて使用した言葉ということですが、いつの間にか世界中で使われる言葉となりました。私たちが環境建築集を出版したときにもタイトルを「サステイナブルデザインガイド」としたのです。その時、日本語にすると「持続可能な」という意味のこの言葉の選択が一般に言う「丈夫で長持ちさせる」という意味と幾分違うことを知ることがとても意味のあることを知りました。丈夫で壊れないものを作ろうとすると実は資源使用が増える、CO2発生が増える、傾向にあることは想像がつくでしょう。これを「デューラブルDURABLE」というのだそうです。「サステイナブル」とはその反対で、いわば丈夫でなく壊れやすいもの、つまり資源使用量の少ない「軽い」(しかし快適さを損なわない)建築を運用や管理、エネルギー考えながらを上手に維持し使うことということのようなのです。
今日の社会公共サービスが無駄を排除しサービスの当事者を市民にゆだね私たち市民自身により提案され運営される姿があちこちに見られますが、まさにそうした社会を「サステイナブルソサエティ」の姿というのでしょう。

建物を作るときの資源使用はとても大きいものです。木造住宅は比較的「軽い」のですが今日の木造住宅は立派なコンクリートの基礎の上に建てられるためその重量は50tを軽く超えるのです。建築を長く使い続けることが大切なのはこの事によります。二度三度と建てなおすことは二倍三倍の資源使用と二倍三倍のゴミを発生させます。そうではなく、改築をしながら使い続ける、サステイナブルな建築とはこのことだと考えるのです。
旧東ドイツのライネフェルデという町で、40年程たった団地が見事に再生されているのを見た時、本当に面白いものを観た、と感じました。ソビエト時代の建物はこれからの時代のマスタープランに合わせ最上階を取り払ったり一部の棟を撤去したり様々な手法をとりながら、窓を替え断熱を強化しまったく新しい建物に生まれ変わり町の姿も一新していました。新築でない,改築であるからこそ可能な様々なサステイナブルデザインがそこにあったのです。市長さんの嬉しそうで楽しそうな表情がこのプロジェクトがこれにかかわった多くの人々にたくさんの満足をもたらしたことを示していました。
新築だけが建築であるかのようなこの国にでも80年前のコンクリート建築を見事に甦らせた求道学舎*9の改修のような成果が少しずつ現れ始めています。こうした試みの面白さを建築家にも社会にも知らせ、たくさんの事例が現れ、建築をより快適なものに改修しつつ使い続けることを社会が共有するサステイナブルな社会を目指す、そのために私たちがするべきことがたくさんあると考えています。


*1 1970年3月、スイスの法人として設立された民間組織。財界人、経済学者、科者などで構成される国際的な研究、提言グループ。人類の生存にかかわる問題を研究。
*2
*3 1992年6月ブラジル、リオデジャネイロに110カ国の首脳を中心にほとんどの国の政府代表、110カ国を超えるNGO代表が集まる。「リオ宣言」それに基づく行動計画「アジェンダ21」を採択。
*4
*5 1995年JIA環境行動指針を発表、また2000年に日本建築家協会、日本建築学会、建設業協会など5団体が連名で地球環境.建築憲章を発表している。1995年から1998年にわたり「サステイナブルデザインガイドⅠ、Ⅱ、Ⅲ」を発刊した。
*6 2000年より環境建築賞を制定。最優秀賞00点、環境建築賞00点入選00点を顕彰している(2006年現在)
*7 ドイツ連邦共和国、ノルトラインヴェストファーレン州が設立、正式には「ヴッパタール気候環境エネルギー研究所」初代所長はエルンスト.U.フォンワイツゼッカー
*8 1995年 E,U、ワイツゼッカー、エモリーロビンス等によって刊行。
*9 2006年近角真一近角00により再生された19mm年竣工武田五一設計の寮がコーポラティブハウスに再生された。70年の定期借地を加算するとこの建築は少なくとも150年の寿命となる
by noz1969 | 2001-01-02 13:02 | 『建築家って』

『「2050年」から環境をデザインする』 1

団地再生 
住み手が住まいをつくる       野沢正光


ベルリンの壁崩壊後の旧東ドイツの大団地は、人口急減を受けて、適正規模へと容積率を減らすことで再生を図った。このことを知った建築家は、日本における団地再生に関心をもつ。団地再生の主人公は誰か。日本のある団地では、お金、コト、人も住み手が自ら動かしながら、団地の生活を運営する試みが行われていた。


団地再生というテーマに出合う

 団地再生研究会というNPOを始めて四年が経ちました。NPO法人になる前の活動を含めると六、七年になります。 
 きっかけは、ライネフェルデという団地を知ったことです。この旧東ドイツの団地が大変に面白く再生されていることに驚きました。僕がなによりびっくりしたのは、二〇年ほど前のベルリンの壁崩壊に伴って、露呈した東側の社会の弱さです。西側ではふつうのことである減価償却という考え方が社会主義国にはなく、たとえば機械を更新するなどの維持管理の仕組みがまったくなかった。東ヨーロッパには、確か六〇〇〇万戸ぐらいの大型パネル工法によるプレキャストコンクリート住宅があって、そこに二億数千万人が住んでいたと言われますが、その住宅が廃墟になりつつあった。東ヨーロッパの団地は産業とセットですから、工場と住宅団地の両方がくたびれていく、それを建て直し再生する試みを統一ドイツの連邦政府と地方政府がいろいろと行っているのですが。ライネフェルデはそのモデルケースというわけです。旧西ドイツ側の建築家も参加して従来の「東」と異なる考え方でいろいろな手法を試している、それを見に行ったわけです。
 
床を増やさない「減築」という手法

 ライネフェルデでのそれは、ハードの再生としても面白くて、その手法もユニークでした。具体的には、「減築」と僕らは名づけたんですが、最盛期の人口が二万数千人であったものを一万数千人に減らすことを前提に工場を誘致し、インフラを整備しながら、住宅の規模を適正化しています。たいてい五階建てでエレベーターなしだった住宅を、少なくとも四階にするというものです(図1)。
 ここではさまざまな再生が試みられています。たとえば、一五〇〜一六〇メートルあった住棟では、ほとんどは中間に階段をもつ「二戸一」と僕らは言いますけれども、その左右に住戸があるというタイプが連続しているわけですが、そのうちの一つおきのユニットを抜いているんですね。つまり、上一層をとって中を一つずつ抜いていきますから、延べ床が約四〇パーセントぐらいになるのでしょう。今までアンチヒューマンな大きな長い壁の連続だったものを、小さな単位のテラスハウスといいますか、小ぶりの住戸に切り替えたものです。あるいは既存の住棟が二つL型に建っている。そのコーナーにエレベーター棟を立てて、左右に廊下を付け足してエレベーターでアプローチできるように切り替えるなどです。さまざまなタイプの住棟実験が実に生き生きとそこでは行われていました。
 
既存躯体の再利用の新技術

 それを見て、日本でもきっとそういうことが必要になってくるという思いを強くしました。新築では起き得ない、再生ならではのさまざまなテクニカルなテーマがここでは発生することにも注目しました。たとえばパネル住宅を切断し、再度耐久性のあるものに組み上げるなどの対応に新築では考えられない、イノベーティブな技術が発生するのです。
 彼らが一生懸命やっているものは、ひと言でいうとオープンビルディングシステムというものではないかと考えます。オランダのハブラーケンが提唱した「オープンビルディング」というのは、要は躯体のシステムと、設備系をきちんとつくっておいて、間仕切りとかそういうものは可変的に考えるシステムです。
 このシステムは、もともと「サポート」と「インフィル」という言い方をしていまして、これを日本では多くの場合「スケルトン」「インフィル」と言いますが、サポート(スケルトン)というのは躯体など主要部のことで、インフィルというのは、造作といいますか、間仕切りとかそういうものに当たるものなんです。実はオープンビルディングシステムは「サポート」「インフィル」の前提として「アーバンティッシュ」というレベルを考えるもののようです。ティッシュというのは、僕らはちり紙のことをティッシュと言いますが、大きな、インフラと言ってもいいのかもしれないけれども、道路や産業基盤など「網目」のことをいうようです。ライネフェルデでは、産業をどうするか、交通網をどうするか、それから住宅を適正にするにはどうしたらいいか、それから緑をどうするか。つまり「就労」と「環境」と「居住」の三つの主張を「アーバンティッシュ」としているようでした。そのうえで、マスタープランを何度も何度も修正しながら計画を進めていました。


ヨーロッパの巨大団地の再構築

 EUとりわけドイツの中でもライネフェルデは一種特化した実験なんだろうと思います。つまり、ライネフェルデでやってみて、今後どうするか。再生のできない住宅団地もいっぱい出てくると思います。ドイツではライネフェルデの他にもいくつか実験がされていますし、団地の再生はヨーロッパ各地で起きているんですね。
 一九六〇年代から七〇年代につくられた団地の再生に一番最初に手をつけたのは、イギリスのサッチャー政権です。サッチャーがいわゆる巨大集合団地——僕らの世代にとっては、大学で習ったとても大事な資料みたいな団地でして、グレーター・ロンドン・カウンシル(GLC)という組織が、これらの団地やニュータウンをつくったわけです。これらの多くは「空中歩廊」に象徴される大型高層の連続する住棟群を一つの特徴としていましたが、それが、「バンダリズム」(一種の暴力的破壊)の根拠とされ、サッチャー時代にアリスコールマンの指摘により「再生」されることになるのです。
 たとえば、長大な住棟を小さな単位に切り替える、長い空中廊下を切断し住棟を分離する。入口にセーフティのための居住者だけが入れるロックをつける。それから均一のオープンスペースだったところを切り取って個人の庭に切り替えたり、小さなパスといいますか道路に切り替えてオープンスペースを多彩な場にするなどが行われたのです(図2)。僕らにとってはGLCのそのころの集合住宅は実はすごく素敵なものなんです。広々としたグリーンの中にタワーがぽんと建っているとか、長い住棟がその中に配置されているというような感じで、いわゆるパブリックなスペースとプライベートな住棟だけのこれらの団地が管理、安全の面から問われることになったのです。それらを管理可能な安全な場所に切り替えていくことをイギリスでは劇的にやったのでしょう。
 もう一つ典型的なのはオランダの事例です。アムステルダムの郊外ですが、ベルマミーア団地では、蜂の巣状に八〇メートルか一〇〇メートルぐらいの住棟が連続しつながっている。そこの間に、八〇メートルの線で六角形を描いた大きなオープンスペースが交互に存在するみたいな団地でしたが、壊すものは壊し、切断するものは切断して再構築していました(図3)。社会的な変化についていけなくなったこととか、老朽化も一部あるのかもしれませんが、むしろ居住する仕組みが変わってしまったことに対して、大胆な対応となっています。
 これらいくつかの事例を数度にわたり見た、それが僕の団地の再生、都市の再生への興味のきっかけでした。これからは日本でもこうした再生が大きなテーマになっていくだろうとも思ったわけです。

歩いてわかった団地の価値

 団地再生研究会は身近な活動として「団地を逍遙する」という企画をずっとやっています。歩いてみると、住宅団地の周辺の環境が劇的に変化しているのに改めて気づきます。四〇年前、森や畑の中にぽつんと建っていた団地が、いつの間にか建て売り住宅に取り囲まれ、団地の敷地が逆にオアシスのような濃い緑地になっているのです。とても面白いことがいっぱいあります。たとえば、当時公団が住宅団地として開発するときに、公団が守るルールがあるのです。敷地からいっさい土を外に出さない、買収した土地と周辺の高低にはいっさい触らない、などです。このルールでやっているものですから、初期の団地は地表の起伏がとても上手に使われている。公団の団地の計画手法も当事者によりさまざまに異なっています。
 それがなかなか面白い。しかし、それとは逆の例もあります。たとえば、草加松原は畑の中につくったので、真っ平らな、言ってみれば単調な団地です。計画学の教科書的には優れていたみたいですね。住棟間の日照のための距離だとか、そういうのが優れているらしいんです。だけど行ってみますと、一列に全部並んでいますから、住棟は羊かんのように切れていても、一列に並んでいるのを反対側の窓から見ますと、壁のようにしか見えないんですね。切れ目が見えない。だから前を見ても後ろを見ても、自分の住戸からは連続した壁が見えるという、非常にアンチヒューマンであまりに評価できないものもあるのです。
 他方、公団旧東京支社の人は、「自慢じゃないけど」という感じで言うわけですが、住棟配置と敷地の勾配をすごく考えている。一例を挙げましょう。百草・高幡という団地は、すごいです。当時、公団にいた津端修一さんもかかわっています。当時、彼らは三〇歳そこそこぐらいでこの団地のマスタープランをつくっていますので、現在まだ八〇歳になっていない。彼らと一緒に団地を逍遙しながら、いろんなことを教えてもらう。そうした中で改めて、当時の団地というのは十分考えられつくられているもので、今でも十分鑑賞に堪えることを僕らは教わった感じがするんです。
 当時の団地は、住戸の設計はすべて標準設計ですから、それ以外の住棟設計はあり得ません。それを少なくとも「二戸一」で設計しなきゃならないのです。彼らはイギリスのGLCの研究や成果ももちろん知っています。どうやったら日本でも彼らの思想を取り入れた計画が可能か、またコミュニティがつくれるだろうかと、住棟を少し囲い込んだり、いろいろ工夫したいわけですね(図4)。それをこの地形の中でなんとかやってみようとします。住棟を囲い込んだ配置としてその中に車道を入れて、車と歩行者の動線を分けるなど原理的な試みをいっぱいやっているんです。
 戸単位の標準設計をベースにしながら、階段のつくり方に工夫を加える。百草は、階段の図面だけ山のようにありました。たとえば、標準設計の住戸を勾配に合わせて半階分ずらしながら、角度を付けて置く。ですから階段のパターンだけすごくたくさんあるわけです。敷地勾配に合わせて、半階ずつずらしながら等高線に合わせてずっと上っていくなどの試みをやっています(図5)。
 隣接する高幡は百草以上に大変なところで、北斜面なんです。ゆっくりした北斜面に大きくラウンドした標準設計の建物によって大きいカーブをつくり、斜面を南に上がっていくところに別の住棟が建っているという構成です(図6)。そこも無理していて、敷地の中に限られた棟数しか入らないものですから、巨大な住棟を一つぽんと建ててこなしていますが、緑に囲われて人が入りにくい側の今日の緑の量は、ものすごいものです。今は発生した空き家に若い方が入居しているようです。、つまりお子さんを育てるのにすごくいいようで、若い方がかなり住んでいる感じに見えました。
 こういう流れで、昭和四〇年代ぐらいまで団地がつくられていく。改めて団地を見ながらみなさんに知ってもらいたいと思うのは、四〇〜五〇年ぐらい前の公団住宅団地はかなりきちんとした計画がされていたということです。今、こうしてつくられた団地が建て替えられようとしていますが、ここでの設計、計画は四〇年前のそれに比べとてもひどいと言わざるを得ないものが多いのではないかと思うのです。公団は幾多の変遷を経て現在、UR都市機構となっていますが、ひばりが丘をはじめいろいろなところで建替えをやっています。新たな住戸の提案ができないというルールになっていますので、既存のプランをそのまま踏襲したプランで、建替え事業というかたちでつくり直しているわけです。それで住棟を高層化集中させ、残った土地を民間に売ることもあるわけです。売ったところは民間ディベロッパーによる開発で、緑もなにもない計画になるという事態が起きます。
 公団が賃貸の建替えをやって住棟を高くして緑を残しても、公団の別部隊がその横に、敷地内で三階建てぐらいの立体駐車場をつくります。これが存外大きい面積を占めるのです。だからいくら住棟の面積を集約しても、もう一つの大きな工作物の出現で、公園のような緑の公共のスペースはなくなってしまう。私の見るところ、そういう事例が今行われている建替えのようです。僕らは公団の敷地というのは誰のものなんだろう、公団がなんでここでまた事業をしないといけないのと思わざるを得ません。
 批判として言うのではありません。ライネフェルデに見るように、継続してきた智恵、それを生かして、新しい智恵を生み出すことの楽しみは関係する多くの人々で共有すべきではないかと思うのです。
 ぜひみなさんには逍遥に参加していただき、昭和四〇年代の団地づくりにかかわった人たちが夢をもって絵を描いたこと、その作意をぜひ記憶にとどめておいていただきたいと思っています。

リノベーションで躯体の寿命は一四〇年超

 これは今、大変注目されている事例ですからご存じだと思いますが、学生寮「求道学舎」を建築家の近角真一さんがリノベーションされました(図7)。求道学舎は築八〇年。東京で一番古いRC造建築の一つと聞いていますが、武田五一という関西の有名な建築家がつくったものです。ここは近角さんの祖父、近角常観がつくった仏教のいわば「教会」と学生寮です。常観は檀家のいない仏教指導者で、ヨーロッパへ行って教会を見て、日本でもああいうところで説教するという仕組みで仏教の布教もやれるのではないかと、つくったものが求道会館で、背後に立つ求道学舎は、若き仏教学生の寮でした。これが、放置されていた。
 ここを宗教法人がもち続けるために、リノベーションすることになり、コンサルタントの田村誠邦さんがコーポラティブ住宅のシステムをここにもち込むことを提案、近角さんと田村さんが知恵を絞ってこの求道学舎のリノベーションを実現させました。
 土地については、六〇年の定期借地を設定し、それ以降の二年間は経過措置として賃借権があり、つまり六二年後にはもとの宗教法人に土地が戻るというルールです。そのときに、コーポラティブの所有者は、建物の所有部分の価値を売ることになります。これは、土地を売ることなしに再生プロジェクトが、お金も含めて成立したという、日本では珍しい例だと思います。
 求道学舎の躯体は構造耐力を調査し耐震性を検証、躯体以外は解体撤去され一部の構造壁は新しく設けられました。そのうえで、新しく住戸がしつらえられたのです。廊下の幅が非常に広かったので、その廊下の部分も住宅に切り替えています。もともとあった階段を使って、上下でメゾネットに切り替えた部屋もあります。
 二つの寮室を合わせて一住戸に変えたり、広い廊下と合わせ、らせん階段を設置してメゾネットに切り替えるなど全館を住宅に切り替えたのです。「再生」の特徴で周囲の大きな樹木などの環境が守られ、一新した建物と見事に調和しています(図8)。
 八〇年前の躯体といえども見事に再生できることを実感していただける、わが国でのかなり希有な事例ですね。わざわざライネフェルデまで行かなくても、この事例で再生の可能性、有用性は十分わかるはずです。
 
躯体を使い続けることがCO2削減の近道

 求道学舎の再生は、を五〇パーセント削減するという課題に対して建築のフィールドで何ができるかのすごく大きなヒントだと思います。
 公団は求道学舎の半分のたった四〇年しか経っていないのに壊す。仮に、四〇年ごとに建て替えるとすると、求道学舎が再生によって保証された八〇プラス六二年つまり一四二年の間に四回建て替えることになります。建築における排出量は躯体だけで、全体のたぶん八割五分ぐらいを占めます。単純にいうと四回建て替えるとが四倍増える。そのうえ解体による三回分の排出量が加わる。
 建築では、使い続けること、特に躯体を使い続けることが排出量の削減にもっとも貢献することになるのです。僕たち建築家、また一般の人にもぜひ、直す方法や再生する方法、そしてそれによってその快適度はいくらでも上げることができることをぜひ知ってもらいたいと思います。また、建築家も、直す、使い続けるための、メニューや使い続けながら建物のクオリティを上げるための技術開発に取り組んでいく必要があると思います。

コンバージョンでよみがえった中学校

 東京・足立区に、「3年B組金八先生」のストーリーのモデルになった中学校があります。この築三〇年の学校を足立区は民間にプロポーザルで払い下げたのです。いろいろなプロポーザルの提案があったと聞きました。結果、東京未来大学という、福祉系の単科大学に切り替える案が選ばれました。
 これが堀端に立つ既存の建物ですね(図9)。この学校法人は、圓山彬雄さんという北海道の建築家に計画を依頼して、これを大学に直すというプロジェクトに取り組み、ついこの間竣工させました(図10)。
 耐震性を上げるために、L型の校舎の二つの面に耐震壁がつくられました。ここでの再生は、躯体にとどまりません。何と床は、昔の建物で使われていたナラのパーケットのフローリング、それをもう一度ポリッシュしまして、だめなところだけ取り替えて、すごいきれいな、時間のかかった床がちゃんとできているわけですね。
 プールがあったところは、改修で大教室となりました。通例として解体されることの多い、三〇年そこそこの学校が、こういうかたちでもう一つの用途に切り替えられて生きていく。
 新たに、足りなかった構造壁が取り付けられ、便所は全部やり替えています。エレベーターを付けたり、もちろん図書館、本部、研究室、食堂ホールなどの建物を旧校庭に新築するなど、いくつかのそういう作業をして、機能を満足させて、文部科学省の基準にも合う単科大学として生まれ変わりました。
 こうしてみると、そろそろ日本でも建物を再生しながら使っていくことがメニューに入ってきているという気がします。紹介したのは、一つは住宅で一つは学校でした。しつらえはボロになっていたり、表面がボロになっていたり、場合によっては性能が悪い、サッシュが悪いとか、断熱が足りない、機能が変わったなどがあっても、躯体はボロになっていないのです。補修・補強でなんとかなるはずの躯体と考える力さえあれば、改修のやり方はいくらでもあるのです。 

団地再生に不可欠な制度と仕組み

 求道学舎のプロジェクトが、なぜ成立したかというと、所有者を一人に絞ることができたからです。ただし、頭が痛いのは、金銭面でした。銀行は区分所有という仕組みには金を貸すのですが、この仕組みは、維持、管理、建替えではとても不便です。
 僕がよく知っている多摩ニュータウンでは、いくつものNPOがあって、そのNPOが自発的に団地の経営をしていこうとがんばっています。非常に有能な金融マンだとか非常に有能な各種の専門家や建築家もいます。
 たとえば、例のペイオフでの上限一〇〇〇万円までの預金保証の話のときも、各団地の管理組合は非常に困った。大規模修繕積立金が、場合によっては何億円あるという団地は多数あるわけです。もしも一億円もっていたら、リスクを回避するために、一〇口に分けなきゃならない。一〇口に分けた金を管理することは、それだけで大変なことです。多摩ニュータウンに住む外資系企業に勤める人が、信託化を提案するということがあったと聞きます。このように、知恵は団地の中に、たくさんあるわけです。そういう人たちが、団地を自らのフィールドにして金も動いて、人も快適に住んで、運営自体を自分のものにしていくことを積極的に考え始めているようです。
 釈迦に説法ですが、たとえば一団地認定という仕組みは、つくるときは都合が良くても、建替えを含めて団地再生を考える際にはネックになる。新築ばかりを考えたときに都合の良かった制度、仕組みが再生の時代の足かせになっていることは本当に残念です。新しい仕組み、制度、考え方の創出こそ急務です。
 極端ですが、団地から人がいなくなったら公園に戻すようなことがあってもいい。つまり、共有の場所として、四〇年人を住まわせながらこんなに大きな緑にしたのだから、ここは市民の共有の緑地だという格好で、団地が緑の公園に変わっていく、所有はずっと市民だったということにできる、こうした制度とか仕組みの創出があり得ないだろうかと思います。
 これについては、一八五〇年ぐらいにできたナショナルトラストというイギリスの制度が参考になります。オクタヴィア・ヒル、ロバート・ハンター、キャノン・ラウンズレイの三人によって設立された。貴族たちが農村にもっていた広大な敷地などを共有財産(コモン)として次世代へと引き継ぐ仕組み制度を古くからある入会権を根拠として考えたわけです。コモン、共同で使用している権利のほうが、所有する権利の上にあることを理屈づけるんですね。一方で破壊が起きると、その一方でそういうカウンターの動きが起き、理屈をきちんとつけて、なるほどと思わせ社会化するというようなことがあった。日本でどうしたらそうした発想を実現できるだろうか、そう思うのです。
by noz1969 | 2001-01-02 10:24 | 「2050年」から環境をデザイン

清家さんについて

清家さんについて                              『住宅建築』2007年1月号
学生のころ、友人と坂道を登りながら清家さんの家を探し探し見つけだして覗き込んだことをそのはじめとして、かなり以前から清家さんの初期の住宅のいくつかを見ている。「森博士の家」「斉藤助教授の家」「宮城音哉邸」「秋山さんの家」それからいうまでもない「私の家」「続私の家」などだ。そしてそれらのいくつかについては、数度にわたって訪れる機会を持っている。特に真鍋弘氏が「建築知識」編集長であったころ数度にわたり取材を兼ねて清家さんにお目にかかり話を聞きながら濃密に訪れた「私の家」を懐かしく思い出す。
何より清家さんの戦後すぐに始まるいくつもの小住宅のほとんどはこの国の住宅に珍しく今日まで現存し健在である。過去、何度か訪れることができ、うまく行けば今日でもまた赴くことが可能なのは何よりそれが今日そこにあることによっている。清家さんの住宅の多くはクライアントの意思で壊されることがない住宅であったのではないか。なぜそうだったのだろうか、一般に規模の小さな戦後すぐの住宅の多くは生活の姿が変わる中でその寿命を終えていった。そのなかで彼の住宅は偶然、まれに、運良く、愛され使い続けられている。もちろんこれに尽きるのだろう。抑えられたヒューマンなプロポーション、モダンなデザイン、これだけでは清家さんの意図を類推しながら手繰り寄せ納得できる説明にしたということにはなるまい。たしかに清家さんが今日生きていたとしても彼は笑いながら「運がいい」としか言わないだろうとも思うのだが。
若き清家さんはこれ等住宅の発表の折にもっと丁寧にそれらについての説明を試みている。以前取材の折、そうした記事を僕なりに読み直したことがある。「架構と舗設」それはその中で見つけた、なるほどと思わせるキーワードであった。清家さんの設計の家はこれらの分離が極めて顕著である。最近残念ながら解体されたと聞くがあの宮城音哉邸では家具、間仕切りなど「舗設」(清家さんの言う「ほせつ」とは「設え」=「しつらえ」のことだろうとおもう、この稿では「設え」とさせていただく)のほぼすべてを渡辺力に委ねてさえいる。「架構」を「設え」と意識的に分離する、これにより自在な室内が家族の生活の経過する時間なか、当然起こりうるさまざまな模様替えの要求にこたえることを可能とし、それが住まいの陳腐化をもたらすことなく、長く使われ続ける。これが第一の理由なのではないかと思う。
「架構と舗設」は今の言葉で言えば正確に「サポートとインフィル」こうなるはずである。オープンビルディングシステム、架構と舗設を分離する。私がこれをオランダのハブラーケン等の構想であり、社会住宅設計建設の主要なツールであると知るのはわたしが 20代の後半のころであり、大学同期の才媛、中澤富士子氏による詳細な紹介記事が特集された「都市住宅」1972年9月号の中であった。仮にハブラーケン等のこうした思考が戦後すぐのヨーロッパに既にあったと考えても清家さんの思索はいかにも早いと言えるのではないか。

清家さんが海軍機関学校の教官であったころ、たくさんの格納庫を設計したと聞いたことがある。「架構と舗設」はそれをルーツにするのかもしれないと思うことも可能だ。格納庫はサポートだけがある建築だろう。どう考えても格納庫に作り付けの家具や間仕切り、つまり「設え」はありえない。
そして、もうひとつ50年代の清家さんの設計する住宅に設備されるパネルヒーティングについてである。自宅のそれは特によく知られている。彼はそのころから「温熱」のための装備を必須のことと考えているように見える。戦後の最貧の時代、小住宅の室内気候をサポートし快適な室内気候をもたらす床暖房を必須とする建築家はほかにそうは見当たらない。ぼくはそれを彼の住宅が長く使い続けられたもう一つの根拠ではないかと思う。建築が作り出す気候である。これも実は格納庫につながるのかもしれないのだ。格納庫には戦闘機がいつでも飛び立つことができるよう暖房があったとの話も清家さんから聞いたものように記憶する。ただ、清家さんの話はどこか幾分怪しいにおいとニヤッとしたくなるユーモアをはらむものであった。どこまで本当であるか、私に確たる証拠があるわけではないが。
奥村昭雄、この人も私のより近い先達である。奥村さんとは20年を超える昔「ソーラー研」と称しああだこうだと議論をしながらパッシブソーラーシステムを考えた。この人が戦時中、舞鶴の海軍機関学校で清家さんの教えを受けたと知ったときはそのめぐり合わせに驚いた。不思議なつながりである。しかも建築のフィジックス、特に温熱を興味の中心としているところが似てもいる。そう考えると僕はいつの間にかこの二人の思索に親近なものを僕自身がもっていたことに気づく。考え試みるフィールドが重なっている、と気づくことになる。「住宅は骨と皮とマシンからできている」という本はこの辺を頼りに書いたものだと思う。骨と皮とはスケルトンであり架構である。そしてマシンとは気候コントロールのための装置のことである。
時代が思索を開く。この二人は私の周辺にさまざまな形で存在する人々のひとりひとりであり、思索のひとつひとつであった。それは書籍でも映像でもないじかに応答することのできる、等身大の身体であったのだと思う。私はたまたまそれに遭遇した。そしてそれが私の主要な部分を作ったのだろうとおもう。

ここで私自身の自宅を見よう。まずは「架構」=サポートを。高さのない、がらんどうの架構である。鉄骨である。コンクリートブロックの壁がある。ハブマイヤートラスがある、床下に太陽熱を空気で送るシステムがある、既製品がまれにしか存在しない。さまざまな思索のモンタージュをここに見ることが可能だ。清家さんがいる。奥村もいる。吉村、イームズ、上遠野徹さんがいるのだ。「設え」=インフィルを見よう。それらは「架構」と明確に分離され手いる。設計に伴って計画された間仕切り家具などの多く、外部の庇などにいたるまでどれも取り外し可能である。ちなみに集められた椅子は奥村さんの手になるもののほか多くは清家さんの家にもあるモーエンセン、ウエグナーなどデンマークのものだ。

清家さんに教えられながら思う。「架構」を構想し「気候」をデザインする、この二つを解くこと、「使い続ける住宅」に求められる課題は突き詰めるとこういうことになるのではないか。住宅の中に改めて「架構」を構想することは「設え」をそれから意図的に分離することになる。それは「設え」の短期での変更、改変を可能とし「架構」の100年を超える存在を可能とするのではないか。そして「架構」の中に作り出すべき「室内気候」は人々の快適な生存のための環境として必須となるのではないか。
そしてそれは最小の資源使用量によって、住まいが慎重に作られ、飽きられることなく長く生活を快適に包み、結果として改修されながら長期維持されること、「サステイナブルデザイン」につながるのではないか、と考えるのである。
清家さんの家は見事にそれに対応するものと思う。この二つが明確に意図されることのない建築がその対極にある。
「気候」、過去、伝統建築はわれわれの住む日本が比較的温暖であると考えること、無意識の「我慢」によって「気候」に対峙することの無い建築であることを特徴とするものであったのかもしれない。「気候」は建築によって作られるのではなくコタツ、火鉢または衣服により局所的に作られるものであった。もちろんその時代、今日の「快適」はイメージとしても存しない。
「設え」、伝統木造住宅において軸組みが「設え」そのものとまったく重なっている事に気づく。伝統木造住宅は間仕切りつまり設えが直接大地に露出し、屋根がかけられたもの、と捉えることができるのではないか。横架材までの厳密さに比べ小屋組みが自在でどうにでもなるいいかげんなものであるのもそのせいかもしれない。住宅寿命が今日に至るまで「設え」の変更のスケジュールに似たものであることも必定であったと考えることもできるのではないか。我慢が普通であった長い間、人々はそうしたささやかな「すまい=設え」を維持し生活を営んできたのだろう。初期のコンクリート造公団住宅の中にはまさに木造住宅が正確に設えられていたことを思い出す。
家とは、人々にとり、それは生まれる以前からすでにあるものである。家を構想するときすでにあるそれが大きな起点となることはごく当たり前のことだ。我慢ができなくなる中、露出する「設え」を暖房するのである。このことがいかに無益で非効率でとんでもない非効率な営為であることかが気づきにくい。「サポート」「架構」とは熱的性能をも含むシェルターのことである。そしてそれなしに今日的意味での建築が存在しにくいことを意図的に理解し確認しないまま長きにわたり「設え」にさまざまに意匠が凝らし、それを建築的営為と考える、室内気候をまったく射程にしないものであったと考えることができるのではないか。

説得力ある過去の根拠、論理を鑑賞しその上に冷静な思考をめぐらせる、独創とは実はそうしたものなのではないか、と強引であることを多少覚悟で思うのだ。建築は技術であり、気候であり、科学である。そしてそれは最小の資源により快適を求めるさまざまな科学、工学と同衾するもののはずである。建築は構築(バウエン)であってほしい。グロピウスが清家さんに見たものはまさにそれであり、それによる共感であったと思う。またバウハウスの思索は吉村に清家にそして奥村に通底するものであったと考えて不思議は無い。あの時代の建築が比較的ささやかであること、そして大きい開口部と低い天井を持つことが、ヒーティングのため、ダイレクトゲインのためであったと考えることをたのしみとすべきであり、それが結果新しいプロポーション、新しい「美」を生んだのだと理解すべきなのであろう。そこからは新しくそれから連続し成果を挙げる思索が生まれることになったはずである。いまさらいうまでも無いが師と仰ぎ結果としての造形に無思考に憧れ、絶対の「美」にそれを押し上げる、いわば伝統の芸の宗家と弟子のような固定、それからは新しい思索は生まれるべくも無い。清家さんに学ぶ楽しさを思いながら、考えることの充実を思う。
by noz1969 | 2001-01-02 01:18 | 『住宅建築』2007年1月号

「東京中央郵便局を重要文化財にする会」の設立と発起人会の御案内

東京中央郵便局庁舎は、創建時の姿に復元されることになった「東京駅」や、改築された「丸ビル」などとともに私達市民は、何とかして残して(全面保存)丸の内の顔として存続・活用してほしいと、常に想い続けてきた建築です。
建築学会、JIA、DOCOMOMO Japanなどの建築の専門家からも、数回におよぶ保存要望書が提出され、3回に渡って(そのうち1回は大阪で、大阪中央郵便局が中心の)保存の為のシンポジウムが開催されました。
また党派を超えた国会議員連がこの建築の存続を願い、「東京中央郵便局を重要文化財にして保存・活用する国会議員の会(略称)」を組織し、この問題に関しての勉強会を行い、先般河村たかし議員が国会で質問して文化庁より、重文指定 の用意はあるとの回答を得、公式文書として記録されました。
一方この東京中央郵便局庁舎の高層化については、昨年来郵政の中に「歴史検討委員会」(非公開)が 組織されて、4回に渡って委員会が開催され、近々答申がなされることになっております。
私達は、この建築の存在することの大切さを、郵政関係者だけでなく広く社会に伝えるために、
『東京中央郵便局を重要文化財にする会』を設立することにしました。
つきましては下記にて発起人会を開催しますので、是非ご参集、ご協力をお願いします。なお当日ご都合つかないが、発起人になってくださる方がいらっしゃいましたら、是非その旨お知らせください。

日時  3月25日(火) pm6:00―8:00
場所  憲政記念館 第2会議室 
     (東京メトロ 丸ノ内線・千代田線
国会議事堂前駅下車 2番出口より徒歩7分 有楽町線・半蔵門線・南北線 永田町駅下車 2番出口より徒歩5分)
〒100-0014 東京都千代田区永田町1-1-1
         TEL 03-3581-1651
恐縮ですが、下記に○をしてご返信くださいませんでしょうか
  出席    欠席
  当日参加できないが発起人になる
お名前と所属


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「東京中央郵便局を重要文化財にする会」設立・発起人会の呼びかけ人(順不同)
前野まさる(東京芸術大学名誉教授)
鈴木博之(東京大学大学院教授)
兼松紘一郎(建築家、DOCOMOMO Japan幹事長)
多児貞子(赤レンガの東京駅を愛する市民の会)
山本玲子(全国町並み保存連盟)
秋山信行(建築家)
南一誠(芝浦工業大学教授)
       内田青蔵(埼玉大学教授)
       川西 崇行 (早稲田大学教育・総合学術院講師)
       木村民子(前区会議員)
        小林さえ(港区在住)
       ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
問合せ先(申し込み先)多児 貞子 E―mail:s_tani@t.toshima.ne.jp
            兼松紘一郎 E―mail:kk01-kad@kt.rim.or.jp
by noz1969 | 2001-01-01 11:55

『「2050年」から環境をデザインする』 2

住まいは住む人がつくる

 住宅団地は誰のものでしょうか。住宅生産振興財団の『家とまちなみ』という冊子の記事を読んで僕はこれじゃないかと思った。そこでは、埼玉県狭山市の新狭山ハイツが紹介されていました。このレポートはすごく面白い。この記事を書かれた毛塚宏さんという人がすごいと思いました。僕と同い年で、一九四四年生まれ、東京農業大学出身のこの人がこの団地での充実した活動のコアなんだと思います。
 ここは、三〇年ぐらいの前の民間分譲団地で、五・六ヘクタールの敷地に、五階建三十二棟の建物が建ち、七七〇世帯(一、八三〇名)が住んでいます(図11)。できて一〇年間ぐらいは、やはりただのふつうの団地だったらしい。ところが、ここに住んでいる毛塚さんたちが中心となり、シイタケ園、多目的広場、わくわく自然園、まち角広場だとか花壇広場を次々に整備し、商店街までつくりました。団地開発のときの遊水池で市の用地になっているオープンスペースを使って、毛塚さん自身農業が得意だということがたぶんすごく大きいんだと思うのですが、いろいろなことをしているのです。
 共有財産を保全する管理組合とコミュニティを運営する自治会があり、その下に、「子育て」「福祉」「文化」「環境」の各部門に分かれ、たとえば「生ゴミリサイクルを考える会」だとか「楽農クラブ」は環境部門に入っています。これをつないでいるのが農業なのですね。
 事業内容として、緑化の管理運営だとか、ビオトープの管理運営、生ゴミのリサイクル——これは団地の生産物のあるところ、生ゴミですね。それから肥料づくりだとか、共同農場の運営などの事業を基本的にはグループをつくり非常にフレキシブルに行っている。
 僕の事務所のスタッフに、最近の状況を撮ってきてもらったのが、この写真です(図12)。長年の緑化推進本部による取組みで、緑豊かな今の団地の状況ですね。これは、団地の入口の防火水槽の上に木製デッキを敷いて花壇広場にしているところです。
 生ゴミ処理の機械を持ち込んで、コンポストをここでは年間三トンつくっている。
 「わくわく自然園」は、調整池。六〇〇〇枚のコンクリート平板をはがして自力でつくったビオトープです。楽農クラブは共同農場をもっています。やっぱり住まいは住む人間がつくるものなのですね。
 この人たちが三〇年を超える生活を通して、団地の環境をつくってきたわけです。居住だけの、切り取られた場所じゃなくて、ここでは土日もここにいてたぶん面白いし、いろんなポジティブな生産が行われています。うちの事務所のスタッフは、スナップエンドウをもらって帰ってきましたが、すごくうまかったと言っていました。
 「ふれあい広場」は、もともとテニスコートだったところをつくり変えたものです。毎年、夏祭りが行われています。
 こんな感じで、ここでは、お金も動いて、コトも動いて、人も動いて、団地の生活が運営されています。最近の学生は、コミュニティだ、コミュニティだと卒業設計の課題で言いますけれども、コミュニティとは、こういう個性のことなのかもしれないなと思わせる面白いことが、実際起きている。そうすると、最初は、ただの羊かんが並んでいるように見えた団地も、非常に個性のあるものになっていく。
 
住民自らが団地を経営する

 先ほど申しましたように、多摩ニュータウンなどでは、団地を経営する場所として、金も動き、金も生まれ、人も動き、モノも動くという場所として、自発的に経営していく動きがたくさん起きています。特に多摩と高蔵寺と千里、あるいはつくばのように大きい団地は、団地の中で、当事者同士の話し合いやお互いに元気づける試みも実際に起きています。
 市民参加型というよりも、市民そのものが主人公であり、責任をもち、場合によっては手柄を自分たちのものとし、失敗を恐れなければ、社会も大きく変わりそうです。それと同じことが団地の中でも当然起きてくるでしょう。団地には考えることのできる人たち、あるいは社会的経験を積んだ人たちがたくさんいますので、その人たちが団地を経営するというか、そこをマネージしたり、自分の能力を生かして何かする人たちが出てくれば、いろいろな個性ある団地が生まれてくることになるでしょう。

変化のダイナミズムと団地再生

 朝日新聞の日曜版の付録の「be」に「あっと!@データ」という小さなコラムがあって、一〇〇年ぐらい前の日本で人口が一番多かった県はどこか、というのがありました。いったい、どこだと思いますか。
 新潟県なのです。つまり、農業がいかに優位な産業で、いかに豊かな暮らしをつくり出し、経済的な力があったか、いかに労働集約型であったか、ということを物語っています。
 今では、新潟が日本で一番人口が多かったことを想像できない。僕がびっくりしたのは、そのぐらい世の中はダイナミックに変わったということです。今後もまた非常にドラスティックに変わる可能性がある。だから、都市とかまちが、これから変わっていくことについて歯止めをかけることができるかどうかもわからない。
 団地が消えていくかもしれないとも思います。大きく、別の変わり方をここから先、相当なスピードでする可能性がありますから。そのときに、生活の場所をどうつくるのかということが、すでにある団地をどう再生するかということにつながっていくのかも知れません。僕たちがつくり変えることを非常にクリエーティブにできたら、大変面白いことになる可能性があると思います。
by noz1969 | 2001-01-01 10:30 | 「2050年」から環境をデザイン

都市への手がかりを建築に求めて      前川國男と都市


【松隈】今回は、「前川國男と都市」というテーマをかかげました。前川國男は都市をテーマにした建築家ではない、と一般的にはいわれています。しかし、前川は、最終的には、一つの建築の中に都市的なものをいかにしたら織り込めるか、に設計作業を集中させていったのであり、やはり都市は大事なテーマだったのだと思います。「輝く都市」を構想したル・コルビュジエに学んだ前川國男は都市をどう考えたのか。今、都市の問題はいろいろな意味で混乱しており、切実に解決策を見つけなければならない難しい時代です。前川がテーマとした都市とは何か、そして、現代の都市をどうするのか、を考えてみたいのです。
 今日、お招きした野沢正光さんは、大高正人さんに学ばれました。大高さんは、前川の下で、「神奈川県立図書館・音楽堂」や「東京文化会館」を担当し、独立後は「多摩ニュータウン」など、都市をテーマにしてきた建築家です。野沢さんは、大高事務所では、広島の「基町高層アパート」を担当し、世田谷区の宮之坂駅のコンペでは一等を取り、集合住宅や駅という視点から都市のことを考えてこられました。
 もう十年以上も前のことですが、一九九二年に、「神奈川県立図書館・音楽堂」の取り壊し問題が起きました。そのとき、野沢さんは保存運動の中心になって活動された。それは音楽堂が残る大きな力でした。その経緯を、私は後ろからずっと見ていました。
 また、その少し後の一九九七年に、前川が都市居住をテーマに設計した「晴海高層アパート」が、再開発で姿を消しました。情けないことに、跡地は駐車場になっています。そのときも、野沢さんが建物の大切さを訴えていました。そうした前川建築との関係からも、野沢さんに、「都市」をキーワードに話していただきたいと思います。

【野沢】野沢です。松隈さんから、「前川國男と都市」について話してほしいと依頼されたとき、「テーマが重たすぎて、無理だよ」と言ったんです(笑)。そうは言っても、都市は幅も広いし、都市と建築は切っても切れない関係ですから、このテーマを脇に置きながら、前川さんのことを考えてみるのも良い機会かもしれない、と思って出てきました。

■前川國男との出会い
私が忘れがたく覚えている前川さんの姿があります。それは、「国立西洋美術館新館」の緑色タイルの増築ができた直ぐ後、友人と出かけた折、中庭をはさんでル・コルビュジエの本館と向かい合う休憩コーナーがあったのですが、そこに、前川さんがひとり立っておられたのです。びっくりしました。でも、そのとき、前川さんは、自分が設計した建物ができた後に、どのようにそれがひとびとに使われているかをこっそりご自身でで確かめに来るような建築家だと思ったんです。とても印象的な光景でした。

 以前、『GA』というガラスメーカーの質の高い社外報が「前川國男とテクニカル・アプローチ」という特集を組んだことがあります(一九九六年秋号)。このとき、内田祥哉さんにインタビューして、「前川さんをどう見ていましたか」とお聞きしたところ、「戦後の焼野原の時代に本建築を作れる建築家は前川さんだけだった。他の建築家は仮設的な木造建築しかできなかったのに、前川さんだけが鉄筋コンクリートの建物を手がけていて、うらやましかった」と言われた。
 前川國男は、戦後すぐに、期待される建築家として大きな任務が肩にのしかかることになったのだと思います。一九五四年に音楽堂を作ります。このような建物を、まだ誰も作っていない時期に、作ることを前川事務所は期待されたということです。そういう意味で、前川さんは、悲劇の人ではなくて、もっとも恵まれた建築家だったと思います。

■技術を通して建築を考える
 ところで、私は大学卒業後、大高事務所に入ったのですが、当然ながら、設計の実務を担当する中で、自分で考えなければならないことがたくさん出てくるわけです。そのとき参考にしたのが、建築の雑誌と実物の建物だった。そうした中で、当時出版されていた、『建築』という正統派建築雑誌に、前川事務所の田中誠さんの、「建築素材論—テクニカルアプローチとデザインの接点を求めて」という連載がありました(一九六一年八月号~六二年六月号)。そこには、プレキャスト・コンクリート、窯業製品、スティール・サッシュなど、いわば前川建築を成り立たせている三大ツールとでもいうべきものが具体的に紹介されていて、建築をどのように考えて、どのように作ったかが、きちんと報告されていました。
 私は、もともと技術的な工夫が際立っている建築が好きな方だったので、田中誠さんの記述のていねいさと、建築へのアプローチの姿勢に感激したのです。そして、こういうことを考えることが建築を作っていくことなのだ、と教えられました。建築の形は、突然に表われるようなものではなくて、一つ一つ、たとえば工法とか、生産合理性とか、そのようなものの積み重ねからできている、テクニカル・アプローチというのは、おそらくそのことを意味していたのでしょう。それが、僕にとってとてもなじみの良いものだったのだろうと思います。
 その後、前川さんの仕事に、書き手として触れる機会がありました。「原点としての設計スピリッツ」を特集した『建築知識』の三〇〇号記念号(一九八三年七月号)です。一九五〇年代の建物をとりあげて、みんなで書き分けたのですが、私が担当したのは、前川さんの「日本相互銀行亀戸支店」でした。ほとんど誰も知らない建物です。私は子供の頃祖母の家に行く折に、プレキャスト・コンクリートの南京下見板の外壁をもつ、この建物の横を通っていました。戦後の街中に、白い建物がぽつんと立っていた。私の近代建築初体験のひとつが、この「日本相互銀行亀戸支店」なのです。もう一つは、修学旅行で鎌倉に行ったときに見た、「神奈川県立近代美術館」です。建物に光が反射して真っ白に輝いて見えました。

■都市を経験する
 「神奈川県立図書館・音楽堂」は坂倉さんの「神奈川県立近代美術館」同様当事の知事、内山岩太郎の発案で戦後いち早く作られた前川さんの初期の傑作です。しかし、さきほど紹介がありましたが、その建物がバブル期の再開発計画によって取り壊される、という不穏な噂が伝わりました。それで、「それは困るよ」と、保存を訴える声を建築家や音楽家が上げ、私もその動きに加わったのです。そのとき、なぜこの建物が壊されると困るのか、を考えざるを得なかった。そこに建てられた経緯や都市の中の建築のありようを、建物が壊されるかもしれないという切迫した状況の中で、新たに知り、確認することがたくさんありました。そのときから、私は、「都市」を経験することになった、ともいえます。
 その保存運動の最中に、「音楽堂が危ない」と、担当者だった大高さんに伝えに行ったところ、大高さんは、設計したころのことを懐かしそうに話してくれました。現在は、江戸東京たてもの園に移築された「前川國男自邸」で音楽堂の図面を描いたそうです。ご存知のように、前川事務所は戦争で事務所を焼失し、戦後の活動は前川さんの自宅でスタートしたんですね。それで、板の間の居間に製図台を並べていた。夏はあまりに暑いので、上半身裸で描いていると、前川さんが帰ってくる。帰ってくると裸では怒られるので、慌ててシャツを着たそうです(笑)。そんな状況で音楽堂は設計されていた。
 「そのとき、設計の参考にしたのが、ロンドンのテムズ川の河畔に建つ「ロイヤル・フェスティバル・ホール」の報告書だった。そこには、こうすれば、経験的ではなく、きちんと科学的に音響がデザインできる方法が詳細に書かれていた。」、と彼は話しました。もちろん、当時は、前川事務所も、音楽ホールを設計した経験などありませんから、必死になってその報告書を読んで設計したのです。「あれがなかったらできなかった」と言っていました。
 そうなると、私も、ロンドンに行った際は、フェスティバル・ホールに行かないわけにはいかなくなってしまう(笑)。でも、毎回そこへ立ち寄るようになって、都市と建築についていろんなことを学ぶことができたと思っています。それは、音楽堂や日本の公共建築と、フェスティバル・ホールが置かれている状況の違いです。

■ロイヤル・フェスティバル・ホールの教え
 フェスティバル・ホールのホールの下、ホワイエは、いつ行っても公開され、音楽会が行われています。無料です。人があふれ、ビールを飲んで楽しんでいる。本屋もCDショップも開いている。バーもあって、スナックスタンドもあります。時間をつぶしながら快適でタダでいられる場所が、維持、管理、運営されているのです。街の公共施設はこうやっていつも市民に向け開いているものなんだ、ということを教わりました。
二〇〇一年に、フェスティバル・ホールは、開館五〇周年を迎えましたが、ロビーには、『五〇年目の大改修』というパンフレットが置いてありました。内容は、今後一〇〇年使うための増強案の詳細な説明と、そのための募金の呼びかけでした。「みなさん当事者でしょ、楽しくここで遊んでいるのだから、少しは出してよね」という調子です(笑)。いくつかの仕掛けが、サービスと対価の緩やかな要求として、盛り込まれているんですね。横には今度使う椅子の実物まで置いてある。大改修が終わるのは二年くらい先ですよ。でも、すでに椅子は決まっていて、「今度、君たちこれに座れるんだぜ」という感じなのです。
そのパンフレットを見ると、担当する建築家だけでなく、それを支える技術コンサルタントまで、十チーム以上の名前が記されていたと思います。オーブ・アラップのような有名な構造コンサルタントの他にも、防火は誰がやる、積算は誰、などと書かれています。パンフレットを見て、寄付しようという気にさせるような、楽しげな仕掛けになっている。大高さんは、「音楽堂は、フェスティバル・ホールを参考にした」と懐かしそうに言いました。私は実際のロイヤルフェスティバルホールを見て、都市の公共施設は本来こういうものなんだと思ったのです。日本に帰って、神奈川県立音楽堂に行くと、コンサートのない時は、扉がぴったり閉まっていて、暗黒の空間といいますか、ホワイエも寒々しい。私たちの街は、ロンドンがもっている都市のサービスを欠いていることに改めて愕然としたわけです。

■近代建築をわかりやすく語ること
 さて、音楽堂を壊そうとする不穏な動きがあったとき、私たちは、単純に「困るじゃないか」という思いで保存運動をはじめました。しかし、実際に動き出してみると、「保存を訴えるには音楽堂でシンポジウムをやるしかない。でも難しい」と、みんな弱気になっていた。その打合せに、私がたまたま遅れて行って、「できる、できる!」と言ったのでやることになったと、後で聞きました。(笑)こうして、音楽家と市民、神奈川県立音楽堂を利用しているたくさんの人たちが熱心に動いてくれて、シンポジウムが見事にできたのです。
 その中に、「浜の会」という名前だったと思いますが、横浜市内をボランティアで案内するグループの人たちもいました。彼らに、「街をガイドする際に、例えば、港の見える丘公園に建っている古い洋館は説明できるけれど、音楽堂のような近代建築は説明の対象から外れている」と言われたのです。それを聞いて、これは私たち建築の世界にいるものの怠慢だと思いました。私たちは、音楽堂は、近代建築として問答無用に良いのだと思い込んでいたわけです。でも、今まで普通の人にわかりやすい言葉で説明することを怠ってきたのではないか。「近代建築の良さを説明してください」と言われて、私たちは、急遽、近代建築の説明をするトレーニングをさせられた。それは、私にとってもうひとつの大切な経験でした。
 やはり、街は、専門家がこうしたらどうだろう、こうしたらわかってもらえる、こんな手間のかかったサービスなら良い反応を示してくれるだろう、といった仕掛けがあって、はじめて楽しむことのできる場所になるのだろうと思います。ロイヤル・フェスティバル・ホールのスタッフたちが日々画策しているようなことですね。私たちがいかに市民に説明できるのか。それは、建築がポピュラーになってつまらなくなったり、反対に高尚なものになっていくのとは違う。建築の楽しみ方をきちんと説明できること、偉い人がやっているので黙っていなさい、ということではなくて、建物を作るときもできたときも、きちっと市民と応答することが、楽しい街を作っていくことにつながるのではないかと考えるのです。

■一九五〇年代の近代建築とレプリカ
 そういう意味では、前川さんの日本相互銀行本店や神奈川県立図書館・音楽堂、坂倉さんの神奈川県立近代美術館など、一九五〇年代の建物は、私たちにとって大切な文化財のはずです。これら全部を残したとしてもたいした数ではないでしょう。今の私たちを取り巻く変化の中では、こうしたものは明日なくなってもおかしくない状況です。その一方で、コンドルの設計した「三菱一号館」が突然、レプリカとして戻ってくる。「それは本物といえるのか」という感じもあって、建物の保存とは何か、そして、都市の風景をどう継承していくのか、が大きく問われています。このことは、私たちの後の世代にとっても大問題です。わたしは街に空虚感を作ってしまう、街自体が捏造された一種の書き割りになってしまう危険性を感じるのです。

■前川建築をたどる
ここで、私の前川建築体験について少しだけ紹介します。私は、もちろん前川さんの建物を全部は見ていません。でも、あまり期待しないで行って、本気でびっくりし、感激したのは、「岡山県庁舎」です。これはすごいと思いました。このカーテン・ウォールにはあきれました。本当にへなへなのサッシュ・バー。サッシュ・バーは、鉄を押し出して作る小さなL型や十型をしたものです。そのサッシュ・バーにパテでガラスを止めるスティール・サッシが当時ありました。それをカーテン・ウォールに全面的に使って、腰パネルは、ベコベコを防ぐために亀甲型にプレスして、立体的な形にしたスティール板で組み立てられている。このファサードに陽が当たって、不思議な光り方、金色に光る。たいへん驚きました。この建築はその後も数次にわたり前川事務所によって丁寧な増築改修が行われていて前川建築の変遷を知ることもでき、サステイナブルな建築使用の好例でもあると思います。『前川國男作品集』(美術出版社,一九九〇年)の中でも扱いは大きくないですが、一九五〇年代の傑作です。
次に、一九六一年にできた「東京文化会館」です。神奈川県立図書館・音楽堂とは十年も時間的な隔たりはないのです。そこには、この建物にかけられたエネルギーと、自在にデザインできるようになった能力、そして、もう一つ、十年ほどしか経たないうちにできたという、当時の日本の経済的成長をも表しているのでは、との気がします。
 私が東京芸術大学に通っている頃には、すでに「東京文化会館」は建っていまして、毎日のようにこの前を通り、中に入って二階の精養軒でチャプスイを食べたりしました。芸大の音楽学校のつてで、建物の裏から入ってタダで音楽会を聞くこともしました(笑)。そういう意味で親しみのある建物です。
 もうひとつ、「東京海上火災本社ビル」です。この建物のように、前川さんの建築には、公開された広場が必ずどこかにありますね。前川さんのウルバニズム(都市計画)では、都市の中に建築を作る、建築の中に都市を作るという方法が試みられていくわけです。
 今は、この建物も、丸の内に無数にある超高層ビルの一つになって埋もれたようになっています。しかし、建設された当時は、皇居のそばに高い建物を建てるのはまかりならぬ、という美観論争が起き、前川さんは、広場を作り出すために一人孤軍奮闘しなければならなかった。そういう意味では、都市というのは厄介なものです。

■ウルバ二ズムへの距離感
 ところで、一九五五年、「国立西洋美術館」の設計を依頼されたル・コルビュジエが、はじめて日本にやってきます。その頃の日本は、まだ、焦土の風景を色濃く残していたのだと思います。僕にはおぼろげな記憶しかないのですが、今から考えますと夜になると真っ暗になるような都市でした。そのとき、コルビュジエは、自分の下で学んだ日本の三人の建築家、前川國男、坂倉準三、吉阪隆正に向かって、「君たちは、これからウルバニズムを担うことを覚悟しなさい。この状況で街を考えなくてどうするのだ。今なら、まだ白紙ではないか」と言ったそうです。コルビュジエは建築と同じように都市への提案を描いた人ですから、よくわかる話です。また、彼が言うことに説得力のある状況が日本にはあったのだと思います。
 しかし、前川さんは、都市全体の計画ではなく、一つの建築を作ることと格闘しなければならないという役割を引き受けようとしたのだと思います。一つ一つ建築材料を選んだり、サッシュや打込みタイル、プレキャスト・コンクリートを開発する。当時の日本は、そこから始めないと近代建築ができない、という状況にあったからです。近代建築をスタートラインにつけるという宿命を引き受けようとしたに違いない。そうなると、ウルバニズムまでとても手が出せないというのが、前川さんの本音だったと思います。
 これは、東京文化会館の模型です。当時、東京都が用意した「国立西洋美術館」の敷地と「東京文化会館」の敷地を、画然と分けている敷地主義みたいなものがありました。そのままでは、建売住宅のように、決められた敷地にぽつんぽつんと建ってしまう。これでは、アーバン・デザインとはいえないと、前川さんも担当の大高さんも考えて、上野公園と東京文化会館と国立西洋美術館の敷地境界を無視して、原理的に計画を立てようとしたわけです。建物の大きさは変わらないから、どこに空地ができてどこに建物を建つかの関係が変わるだけですから、役所の所有権を一度バラせば、公園と建物があいまって、良いかたちのオープン・スペースができるのでは、と提案したときの模型です。
 しかし、役所は、当然ながら、「余計なことはしなくてもいい、敷地の中に建てろ」と言ってくるわけです。そうしたやり取りを何度か粘り強く繰り返したものの、最後は、役所の仕組みを突き破ることができなくなってしまう。それでも、そういうことをきちんと議論して、より良い街、より良い都市環境をどうしたら作れるか、をまじめに提案している。ともかく原理的に考えている。場合によってはゼロから考えることを可能な限りやってみる。前川さんとスタッフは、当時、そこまでやろうとしていた。すごいなと思います。
 状況は変わって、今では、前川さんの展覧会も開かれますし、吉村順三さんの展覧会も開催される。レーモンドの展覧会も予定されているそうです。私たちの先輩の建築家たちが、何をバトンタッチしながら現在に至っているか、を考えるのに、今年、二〇〇五年はとても良い年です。それを考えることは、自分たちが建築家としてやっていく上で大きな励ましにもなる。建築を考えること、そして、建築を手がかりにして都市や市民や社会に視野を広げることは、逆に建築を考えることに戻ってきます。そう考えると、あの時代に、前川さんが果たしたことは孤高であり、エリートの仕事だったと思います。

■市民と応答する建築へ
 少し乱暴な言い方ではありますが、前川さんの時代には、提案する市民、当事者としての市民は存在しなかったので、建築家は役所との奮闘になった、と言えるのではないでしょうか。これからはその辺が変わってくる。市民との応答で建築を作っていくときに、建築家が自分のサービスできる建築の「品質」を自覚的に考えていくことは、ますます大事になってくると思います。その一方で、建築に対する社会の期待が大きくなってきて、建築の存在感が社会の中で増してくると、建築がフローになって経済に巻き込まれてしまう危険もある。オーソドックスで、きちんとした建築を作ることが、私たちにできるのか。テクノロジーは本当に人々を幸せにできるのか。求められる社会環境に対して、建築は何が用意できるのか。それらの問いに答えようとする作業を、前川さんは、一人でやっていたという感じがします。頼るものは自分の中にだけある。そういう意味では、自分の立場に責任をもって、孤高に見えるほど頑張った建築家です。私たちは、周りに豊富な情報がある分だけ、自らの頭で考えることをしないでいるのではないでしょうか。 
by noz1969 | 2001-01-01 02:00 | 『前川國男 現代との対話』

前川國男 現代との対話2

■建築を使う知恵が作る都市の楽しさ
最近、私は、木造の建物を設計することが多いのですが、地方には有能な大工が今もいます。彼らと仕事をしていると、応答の快感のようなものを感じることがあります。私たちが描いた図面を彼らが読んだときに、満面の笑みを浮かべて、「お前の考えたことはとても新しい、しかし、俺の考えていることの延長線上にちゃんとあるよ」という顔をしてくれる。それは、嬉しい瞬間です。このような一種挑発し合うような関係は、テクノロジーの世界には本来必ずあるはずと思います。今、そうした関係が連続的にあればよいのですが、必ずしもすべてにあるわけではなくて、出来合いのもので「これを使ってください」という世の中になっている。そうすると、ものとの応答関係が欠落した建築が、都市の表層を競うようにならざるを得ない。
 「ドイツポスト」という、超高層ビルなのに外気取り入れの開閉窓をもつ建物を見学したことがあります。その実現をサポートした環境系と構造系のエンジニアにゾーベックとシュラーという卓越したエンジニアがいます。彼らは建築家と同等の提案力をもっている。あるいは、それを作りだすことを支援する社会的仕組みが存在する。そういうことが、実は、責任ある都市や建築を作っていく大きな底力なのだと思います。私の経験でいえば、日本には、今言ったような有能な大工がいます。でも、東京でそういう大工を探そうしても、ほとんど無理ですね。建築がポピュラーになって、一般の人々にも面白がられる状況が大きくなる一方で、建築を支える技術をサポートする人びとが疲れてくると、建築はピエロのようになってしまう。
 建築は、一人でできるわけではありません。建築を作り、使っていく多様な知恵が、市民社会の中に、存在するのが都市と言えるのだろう。そうなると、都市は、生き生きしたクオリティの高いサービスを、クオリティの高い人びとが支えながら、その人たちが信頼され、応答がきちんとある、ということになる。それは、建築に限らず、レストランのコックにも、美術館の学芸員にも、図書館の司書にも、あらゆる職業の人に連関するのでしょう。そういう都市を私たちが目指すことが、一番ニコニコしていられる生活環境を作ることにつながるのだと思います。

【松隈】ありがとうございました。都市の豊かさや楽しみ方という意味で考えたときに、どうもこの国はそのことを果たしていない、都市の楽しみ方を知らない。それに対して建築が十分使われていないことをお話されました。前川さんも同じようなことを考えていたのだろうと思います。野沢さんが、神奈川県立図書館・音楽堂の保存運動のころから、このようなことを考えておられたのかということがわかり、大変面白かったです。

■京都の町と京都会館
 それに関連して一つ報告したいことがあります。つい先日、多くの方々の協力を得て、前川が設計した「京都会館」の見学会とシンポジウムを催しました。京都会館は、一九六〇年の開館ですから、今年で四十五周年になります。京都市では、五十周年の二〇一〇年に向けて、建物を直していこうという計画があります。そうした動きの中で、この際、全部壊して建て直したほうが良いのではないか、という強硬意見をもつ人がいることを知りました。そこで、京都会館が、京都の町の中でどのような存在で、どんな可能性を持っているのかを、見学会とシンポジウムを通してもう一度確認したかったのです。
 京都会館は、都市の中に居心地の良い空間を作り出しているという点で、貴重な建物です。前川さんの建築には、中庭的というか、建物の中に人々が寄り集えるような場所を都市に開かれた状態のまま内包していく方法が、ずっと流れていると思います。

■デビュー作に込められたこと
 それから、今度の前川國男建築展で、みなさんに実感として味わってもらえたらいいな、と思っていることがあります。それは、前川國男の一九三五年のデビュー作「森永キャンデーストア銀座売店」の空間です。この建物は、銀座通りに面して、「三愛ドリームセンター」の少しに西側に建っていました。残念ながら、戦災で焼失して今はありません。コンクリート・ブロック造のバラックを改造したささやかな仕事ですが、この建物には、街への提案が試みられています。ショップ・フロントをくの字に引っ込めて、人々がちょっとたたずんだり、雨宿りができるような場所が作られているのです。
 現在の「紀伊国屋ビルディング」にもつながるような、街に対して手を広げている建物です。目下、学生が模型を作っている最中ですが、学生本人が模型を作ることによって、私以上にこの建物の良さを感じています。今、建っていても素敵だと思えるたたずまいです。ブロック造の正面外壁を取り払って、鉄骨で補強して全面ガラスとし、中の間仕切りも全部取り払い、吹抜けを二ヶ所作って階段を配置し、奥の方まで視線が抜ける空間構成になっている。鰻の寝床のような敷地ですが、裏の通りから入っても気持ちいいし、中からも通りの様子が感じられる。そういう建物を、前川さんは一番初めに作っていた。  

■都市で育まれたもの
 これは、私の印象ですが、前川さんは、東京の本郷で育ち、銀座のレーモンド事務所に勤め、独立後もそのすぐ近くに事務所を構えていましたから、都市の楽しさを戦前の銀座でずいぶん享受していたのではないでしょうか。レーモンド事務所から一緒に独立し、前川邸を担当した崎谷小三郎さんのお話では、坂倉準三と仲が良くて、しょっちゅう銀座で飲み歩いていたそうです。前川さんの都市への眼差しを育んだのは、銀座のよき時代の街の風景だったのではないか。おそらく、前川さんの中には、そういう都市へのセンスがあったからこそ、一九六〇年代の丹下さんの東京計画や、メタポリズムの都市への提案とは違う、人々の心のよりどころとなる小さな空間を提案しようとしたのだと思います。

【野沢】日本で戦前の都市文化は、東京や大阪だけに特権的な形であったのでしょうね。近代都市の成熟があってこそ、大正デモクラシーや民主主義が芽生えたのだし、都市の品格みたいなもの、映画を見たり、音楽を聴いたり、食事を楽しんだり、という文化は、ある時期に東京でワッと花開いたのでしょう。その背景として建築が大切であることを、前川さんは、戦前のヨーロッパに行って、確認しているわけですからね。人一倍そういうことに関しては敏感だったはずです。ダンディでおしゃれで、車も好きだったし。
 日本の悲しさは、そうした都市文化が一旦壊れることですよ。その後に空白が来るわけですから、私たちには想像しにくいですが、そういう茫然自失の厳しい時代の中に、私たちの先輩たちはいた。さらに言えば、戦争が大きな負荷になって、戦後、長い時間をかけなければ何一つ片がつかない。「いっそのこと壊してしまおう」という発想も、それと関係があるのかもしれない。「もう少し知恵がないのか」とみんなで言いながらも、その知恵を社会的コンセンサスにできないことが、私たちの時代の大きな問題だと思います。

【松隈】前川さんは、関東大震災と第二次世界大戦による、二度の都市の壊滅的な被害を目撃した建築家です。そこから、建築には何ができて、建築家は何をしなければいけないのか、という問いを受け止めようとした。さらに、「プレモス」によって新しい共同体がどのようにしたらできるのかを一生懸命考えていた。大高さんも、そのバトンを受け継いで、「多摩ニュータウン」に取り組んだ。そう考えると、技術や制度が貧しくて整備できていない時代の方が、建築家は、遠いところに問いを投げてヴィジョンを描けていた。
 むしろ、技術が成熟してそういうことが可能になったときに、遠くへ球を投げる力や努力が失われてくる。林昌二さんが面白いことを言っていて、「一九七〇年代に入るまでは建築家は一生懸命建築を作っていたが、それ以降、建築家は歴史を持っていない」と。「これから本当の近代建築や街づくりができる時代になったはずなのに、なぜそれがうまくできないのか」と話されていたのが印象的でした。人間ってなかなか難しいものですね。

【野沢】前川さんには、「私がやらなくては」という覚悟があったのだと思う。今は、その覚悟を持つこと自体が難しい。つまり、たくさんの人が同じようなことをやっている中で、自分が担わなくてはいけない、と一人で聳え立っているのはヘンなやつになりますからね(笑)。だけど、現代においても、私たちの時代なりのクオリティをきちんと議論しながら作っていく方法があるはずだと思います。それは、前川さんのような、数少ない味方たちとの応答によって、選良としてものを作っていくのとは違う形です。前川さんの生きた戦後は、けっして恵まれた時代ではなかった。だからこそ、選ばれた人間が使命感をもって引き受けようとしたのだと思う。しかし、本来なら、たくさんの応答が可能な現代のような状況の中で、クオリティの高いものができていく方が良いのかもしれない。むずかしいことですが、それが求められていると思いますね。

■東京海上ビルの意味
【松隈】今日は、都市がテーマですが、会場には、奥平耕造さんが来ておられます。奥平さんは「東京海上火災本社ビル」の設計を担当されました。現在、東京駅周辺の再開発が進み、東京海上ビルが急速に小さく見えるようになりつつあります。そうした状況の変化もあって、たかだか数十年前のことなのに、この建物で問われたことの意味が伝わらなくなっている印象も強い。そこで、ぜひ、東京海上ビルについてお聞きしたいのです。

【奥平】じつは、「東京海上火災本社ビル」が、日本で最初の超高層ビルになるはずでした。ところが、結果としては、東京海上の次に始まった「霞ヶ関ビル」の方が、そのままの形で先にできるのです。霞ヶ関ビルの皇居側に行ってごらんなさい。皇居を見下ろすのがけしからん、ということで、窓は全部塞いでありますよ。東京海上ビルからの皇居に対する視線と霞ヶ関ビルからの視線とを比べると、霞ヶ関ビルの方が急なんです。しかし、確認申請を出したら、東京都が許可してくれない。なぜかというと、私に言わせれば、国家権力の理不尽な暴力です。当時、東京都首都圏整備局長に山田正夫さんという土木出身の官僚がいた。この人がいけない。美観論争なるものを仕掛けるわけです。正規の手続きを踏んで建築審査会で審査してもらい、東京海上の建設計画は良いとのお墨付きを得たにもかかわらず、当時の総理大臣の佐藤栄作が出てきて、皇居を見下ろすようなビルはけしからん、と言いはじめた。それで、東京海上は塩漬けになるわけです。都市整備局長と総理大臣が結託すると、何でもできてしまう、あれは完全な暴力だったと私は思います。
 それで、ようやく建物は二十階の高さで頭を切られて完成したのですが、そのことを、宮内嘉久さんは、「賊軍の将」と書いた。私に言わせると、野沢さんと同じ意見で、前川さんは近代建築のオーソドックスをやっている。賊軍なんかではない。前川さんが「賊軍の将」だとすると、私は「賊軍の兵」になる(笑)。私は「賊軍の兵」として生きてきたのではありません。近代建築の闘将の下で有能な兵でありたいと思い続けてきました。

■モダニズムの遺産
【野沢】建築というのはずっと残っていますので、音楽堂などを見に行きますと、その時代の持っていた力が、そのままそこに在る。もちろん修繕されていても、どういう継続的な応答をしながら直されているかを見れば、積み重なった時間が豊かさを教えてくれることがあると思うのです。
建築家は、建築の設計の努力をするのはもちろんですが、建築を見ること、建築を考えることで、大きく力をつけられるはずだと思います。過去の建築なり、新しいものも含めて、きちんと造られたものをきちんと見て、考えていくことが自分の仕事に役に立つ。一方で、慌ただしい時代の建築家は、自分の仕事以外にあまり見る時間や考える時間が無い。そうした状況が、過去の日本の戦後にはあった。そのことによって作られた不幸な建築はたくさんあるのだろうと思います。そういう建築が残らないことも、ある意味では仕方ないことかもしれません。その傾向が、残すべき建物さえも無造作に壊してしまうことにもつながっている。そこが、私たちの社会の抱えるややこしさです。
だからこそ、きちんと鑑賞して、きちんと味わって、面白いと思う、なるほどと思うことを続けていくことが大切ではないか。それは、今、私たちの考える「サスティナブルデザイン」=持続可能なデザインにもどこかでつながっていると思います。戦後すぐの近代建築は、資源使用量が極めて少ないですね。今の贅沢な建物に比べると、「神奈川県立図書館・音楽堂」などは非常に少ない資源によって、最大の効果をあげようとして設計をしている。モダニズムは、どこかでそのようなもの、合理主義をもっていると思います。今言われている、最小のエネルギー投入量で最大のクオリティを、というモダニズムの努力は、今の環境共生型の建築の一つのルーツと考えてよい、大切な遺産だと思います。
そういう意味で、前川さんの努力、テクニカル・アプローチの考え方も、今の建築の考えと太くつながるものを持っていると思います。戦前も含めて、日本の戦後の近代建築を、そういう風に説明してみたいし、みんなで面白いと思いたいですね。それが、建築が、もう一度、都市の中で日々使われ、人々によってもう一度愛着を獲得して、豊かな市民サービスの場になっていくことにもつながる。その可能性は、僕らの知恵によって、十分実現可能なのだと思います。

【松隈】タイルの一枚、サッシュのディテール一つが、都市の豊かさを作るためにある。だからこそ、そのことを追求して、最小限のものが最大限の空間を生む努力していた。そこに、前川さんが、都市を見ていた視線の原点があるのではないか。そして、そのことを、僕らがどう受け継いで、都市の現実に何を働きかけていくのか、という地点に、今、立っているのだと思いました。今日は、都市を通して広がりのあるお話をしていただきました。ありがとうございました。
by noz1969 | 2001-01-01 02:00 | 『前川國男 現代との対話』

LとQということ



LとQといわれてもクイズか暗号のようです。これも最近のカタカナ、略字ばやりのひとつですが、この暗号、案外役に立つもののように思います。種を明かしますとLはLOADつまり負担,荷物のことであり、QはQUALITY,品質を意味する言葉、というわけです。
この二つにどんな関係にあるのでしょう。高いものはいい、これはひとつの見識でしょう。これは負担Lが大きいそして品質Qも高いというケース、ラグジュアリーホテルに泊まったとき、ブランドもののバッグを買ったときなどがこれにあたるのではないかと思います。しかしこれを繰り返すと財布Lはたまりません。支払いLをできるだけ少なくしかも品質Qの高いものを手に入れることが一番いいのはいうまでもありません。

そんな都合のいいことは可能でしょうか。ブランドのバッグについては残念ながらそのQの中心的な部分に個人の不思議な気分が挟まっているようで計ることが難しいのですが、住まいについては様々な物差しでそれを評価することができそうです。
地震に強い、室内の温度や湿度が快適である、間取りの変更が可能で長く使うことができる、維持管理がしやすい、安全である、などこれ等の品質Qがより少ない建設費Lで手に入り、しかも少ない維持費Lで使うことができることが住まい手の求めるものでしょう。
快適Qだがびっくりするほど月の電気代Lがかかるのではおちおち快適Qを続けることができません。そしてそうした負担Lの大きな生活はいうまでも無く地球環境にとっても多いな問題であるということでしょう。何しろ資材もエネルギーも私たちはこの地上にあるものだけを資源として消費するしかないのですから。
古い住宅を直して使う、30年で壊すところを生活に合わせ直しながら60年つかう、こうすると新築するという負担Lが一回分少なくてすみます。それどころかこれによって壊すという負担Lがなくなるわけですから本当はもっと負担Lを少なく抑えたことになるでしょう。断熱に優れた窓や壁とすると同じ快適さQを手に入れる負担Lが大きく減じるでしょう。また太陽熱を暖房や給湯に使う,雨水を使う、風力を使う、木を植えて日陰を作る、建物を地元の木で作るなど再生可能な資源、エネルギーを使うことも負担Lを最小限にとどめるとてもいい手法です。庇を長くして建物を雨から守り長く使える物とする、間取りの変更が容易な構造計画として要求に合わせしつらえを変え、建物そのものを長く使うことのできるものとして計画する、設備、配管など比較的寿命の短いものの更新が容易な計画とすること、などLをかけずにQを長く保ち続けることができる工夫はまだまだたくさんありそうです。
最近私は「木造ドミノ」という企画住宅の設計のかかわりました。この計画はまさにそうした試みであったといえそうです。ここでは木構造のすべてを外壁側だけとし骨組みが室内にないものとすることができたのです。室内には一本の柱があるだけです。基礎もきわめてシンプルなものになりました。こうすることによって室内のしつらえはまったく自由、水周りの変更も自在です。屋根には太陽熱による換気と暖房の仕組みをつけました。
性能Qを主に担う外壁構造部分、自然エネルギーによる室内気候の仕組みにはしっかりお金をかけその他の間仕切りなどは取替え可能にする、ここで試みたことは実は建てるときの仕事の量を劇的に効率化し同じ品質Qのものをより少ない人件費で作ることにもなりました。100年使う建築、しつらえを変えながら長く使い続ける、快適をより負担の少ない方法で手に入れる、こうしたライフスタイルを私たちが新しい時代のスタンダードにすること、それが地球の環境が私たち一人一人の宿題となっている今、求められているのではないかと思うのです。負担Lとは実はCO2など温暖化ガスのことでもあるのですから。


経済産業省 資源エネルギー庁委託事業 ロ・ハウス→
http://www.eccj.or.jp/lohouse/index.html
by noz1969 | 2001-01-01 01:30 | ロ・ハウス コラム 9月号