浦邸に行く    『住宅建築』2008年4月号

浦邸に行く         
浦邸の訪問が叶った。住宅を見せていただくことの難しさはよく知っている。ただ浦さんの家は見せていただける可能性があった。不思議な因縁だが私のカミサンと浦さんの娘さんが学生時代からの知己であったのである。しかもできたら訪ねたい住宅である。そんなわけで浦さん宅への訪問は30年近く以前からの我が家の話題、懸案であった。ただそうは言っても娘さんの不在のご実家にのこのこ押しかける次第も付けにくい。今回のお誘いはありがたかった。案の定カミさんも「行く」という。夫婦そろっての不思議な建築見学となった。
思い出せば震災の折にも当然「あまねの実家は大丈夫かしら」と話題にした。その結果が倒れ掛かった調度の被害はあったものの建物は全く無事であったことにもわがことのように驚き喜んだ。そして今回の訪問であった。駅からの道すがらの風景が新しく道幅も広い。これが震災のもうひとつの結果であった。震災の結果沙汰闇になっていた計画道路が施工されたのだ。その結果半世紀の時間の中で浦邸の姿を隠していた樹林が切り払われ浦邸は道に面して建つ事となった。11メートルの幅の森が道路として消滅したと言う。「森の奥に家があったのですか」と驚く近隣の人がいたと聞く。願いが叶って浦邸の前にいるのに贅沢にも以前の鬱蒼とした木立の中にあった浦邸の姿が見たかったと思う。歩道の脇に「くの字」の形をした例の柱が建っている。見上げると凹凸のあるレンガ壁、少し上るコンクリート土間はピロティの下である。写真で知っている例の様々な文字、パターン、化学記号、それから地震により、また道路拡幅によって土間が改修された日時の記載がある。よく見ると様々な文様もそれらをつなぎ描き継がれている。見上げる梁は「くの字」の柱から延び幾分中央で高さを減じ合理的構造設計を主張している。二つのピロティが連続する真ん中に池、ここに雨水が落ちる。しばらく地表をうろつく。建物の奥と前面には時間の経った樹木が茂る。道路開通以前の景観を偲ぶ。
一つ目のピロティをくぐる先に階段がある。玄関は半階ほどそれを上ったところにある。ドアを開ける。広い幅の階段、二階のフロアが目の高さに近く広がる。二つの棟をつなぐここは屋根のスラブが低い。結果として天井も抑えられそのせいか思いのほか広く感じる。その中に「くの字」の柱が鮮やかな色ガラスの逆光に影となってある。八本のうち唯一室内に取り込まれた特別の「くの字」柱だ。この柱の右手が寝室、子供部屋など私室の領域であり左手が公室、つまりダイニングとリビングである。公私が画然と分けられたプラン。振り向くとエントランスのドアのある背後の開口部も色ガラスによっている。モジュロールに拠る分割、この家の特によく知られているところだ。その横下階からの階段沿いの壁に建築家吉阪の手形、そして浦さん家族の手形が押された二枚のプレートがはめ込まれている。あまねの手がとても小さい。当時5歳という。ペイントの塗り替えなど各所に手入れの行き届いていることに驚く。浦さんご自身の手によっているところも多くあると聞く。建築の姿ばかりかそのメンテナンスを自身でなされる、まるでヨーロッパの住宅のようだ。
居間に招じ入れられる。室内を見せていただく。比較的高い天井そして開口部が少ないかと思わせる印象である。ただし開口部の一部に木製のブラインド雨戸が降りていることと、カーテンが下げられていることに拠るのだろう。それらが開け放たれたときに受ける印象とは大分異なるのではないか。しかしこれはこれでとても好もしい。震災により多くの什器調度を失ったとはいえ半世紀を経た室内は浦さんの過去と今が充実して存する。家具のほかに写真、絵画、書、書籍やレコードが主人の人格を投影する濃密な室内。そしてその中に原色に塗られたスイッチパネル、ドアの黄色い木製のラッチ、作り付けの家具など50年前の吉阪さんと浦さんの応答の結果があちこちに存在している。ピロティの上の空間はこの家の生活を確実に包み護ってきたのであろう。
1956年に竣工のこの家はもちろん吉阪隆正の処女作といっていい住宅である。計画は自邸の計画とほぼ同時に進行している。浦さんと吉阪さんは戦後のフランス給費留学生としてパリで同じ時間を過ごす。薩摩会館と呼ばれる日本建築が日本人留学生の宿舎であったという。その眼前にコルビュジエのスイス学生館があった。古風な寮から見えるモダンな建築。日本橋生まれのちゃきちゃきのあたらし物好きの数学者とコルビュジエに憧れパリ行き、そのコルのアトリエに通い、ユニテダビダシオンの監理に明け暮れ時折パリに戻る吉阪、二人は親密な付き合いをし、刺激的なコルビュジエの建築について話をする。浦邸はまさにこの邂逅が作り出した建築である。設計時の様々なやり取りは今も残される資料により検証可能であり、それは既に斉藤祐子によりきわめて詳細に検討され著されているからそれに譲るが、クライアントの要求は三項目、1、ピロティを設けること2、室内は土足であること。3、公私を分離すること、というものであったという。時代を思うとこれは恐るべきというべきものであろう。そして吉阪は細部にいたるまで丁寧に浦の希望に対応している。よきクライアントとの応答は共同の作業としてこの家に結実する。

そして1956年浦邸は竣工する。現われた建築はきわめて合理的なものであってわれわれがその後の吉阪の印象とし持つ彫塑的なものはレリーフなどを除きここにはほぼ存在しないといっていいだろう。架構はよく検討された「くの字」の柱と梁によっている。特徴的な柱は壁柱としての機能を持ち正確に四角形を形成するよう配されている。スラブはそこにダイアゴナルにかけられる。ピロティ下を見上げると梁は「くの字」柱を四角く繋ぎさらにそれと平行に井桁の梁が組まれている。その井桁の梁はその先に三角のスラブを載せていることになる。特徴的なファサード、「くの字」柱がスラブを中央でバランスして支えているように見える姿は平面図を45度傾けて見れば四隅に「L字」柱を持つ極めて強固な架構にも見えるのである。二つの棟は間隔を置き中央の一本の梁の上と下に反転して置かれている。この架構が未曾有の震災の強烈な加速度に対してもびくともせず奇跡のように耐えたのであろう。
そして貫かれた思想は真っ正直にドミノシステムである。コンクリートの二枚のスラブは自由な平面を作ることに貢献している。大地は開放される。自由なファサードは二重積みの特徴的なレンガ壁と木製のこれも特徴的な開口部枠によっている。この開口部は特に面白いし興味深い。大きめの断面のフレームの中に可動のガラス障子小さなガイドレールそれを走るブラインドのための板戸、通風のための細長い開口などが様々にセットされている。すべて木製である。特に居間の大きな開口に設けられた雨戸のための張り出したフレームには微笑む。遠くに行ってしまった雨戸には引き寄せるための長いハンドルがついている。フレームをモジュロールにより分割し開口部の様々な機能をそこに付与する、コルビジュェ直伝、ユニテダビダシオンの開口部に極めて近い。大き目の庇の役目を果たす屋根スラブのおかげときめ細かに行われているメンテナンスによってこの開口部は今日も健全に保たれている。架構を要素ごとに分節し目的にあわせモジュロールを手がかりに適宜配する。それが建築の姿となる。この開口部には吉阪の二年間のコルビジュジエ体験が素のままに若々しく現われているともいえるのだろう。

大分以前20年ほども前のことだが50年代の住宅について考えいくつかの住宅を見て回ったことがある。「建築知識」誌が50年代建築の特集を先駆けて企画していたころだ。いつの間にかそのときの経験が私の血肉となっているとも思う。自邸で清家さんご自身から話を聞いたのはそうした折であった。清家自邸が竣工したのは1954年、浦邸竣工の二年前である。ちなみに清家さんは1918年生まれ、吉阪さんはそれより一年早い1917年に生を受けている。二人はまさに同世代の建築家である。かたや地にぴったりとつき床暖房を敷設し地下室を持つ広大な庭に連続する小さな一室空間としての清家邸、そして一方地表から離れ家族一人一人を個人として扱い公私を峻別する浦邸。清家邸の規模はたかだか50平米これに地下部分を加えても70平米に過ぎず、浦邸は130平米、清家邸の2、5倍ほどもありしかもほぼそれと同面積のピロティを持つ。この二つの住まいは対比的ではあるが共通して時代と場所をはるかに飛びこえているように思う。習慣を超えた最新の生活が突然そこに現われたごとくである。二つの住宅はいかにも新しい時代のまだここに無い生活を目指すものであったのであろう。そして二つの住宅がともにコンクリートによる堅固な躯体を持つこと、レンガによる二重壁を作ることを試みていること、開口部をユニットとして解いていることなどに時代のなかで共通する宿題を共通する思考で解くことをともに試みていることも興味深いことと思う。

あたかも出来上がったものとして、様々な複合され機能化された「建材」がカタログにあり、設計することをそれらのアセンブルとしてしか意図することができない、それが今日であるとすれば50年代はすべてのものをデザインする、意図する、自らの手で考え描き創る時代であった。浦邸はクライアントと建築家がその作業を担いともに行うことによって現われた奇跡であろう。その「意図」のひとつがプライバシーの尊重と個の責任を家族ひとりひとりのなかにも求めたことにある。それがここにしかない室内から施錠できるドアの木製のラッチの「開発」に至る。ヒントは日本家屋の雨戸の錠であろう。黄色くまたは黒く塗られた錠は50年を経て今も機能を果たす。家は生活の器である。ここには50年前、吉阪と浦が共通して抱いた新しい生活に対する真摯なイマージュがある。だから生活をサポートする一つ一つのものはここにしかないものとしてここにあるのだろう。そしてここにはそれが今も存している。
私たちはそれに不自由の時代の自由な豊かさを見ながら今日に豊かなの時代の不自由と貧しさを思う。そして「モダニズムとは用が終了するとともに消滅を覚悟している建築である」と唐突に言った評論家を思い出す。妄言である。建築は決してそのようなものであることは決して無い。維持しながら使い続けることの豊かさと充実、そして記憶、このことをこの住宅ほど雄弁に物語るものは無い。
by noz1969 | 2001-03-22 13:01 | 『住宅建築』
<< 自宅の話          『... 『Bulletin』0804 >>