東北へ

週末から3日間 東北を見た。三春の仮設を皮切りに 釜石にいたる広域のエリアを一巡し 惨憺たる被害を見せる被災地とその周辺の仮設住宅、復興住宅を見歩いた。一見して地震そのものの被害は思いのほか少なく、全く呆然とするのは津波に押し流され沈下し、海に侵食された海岸沿いの風景であった。一年が経ち 主要な道路は仮橋などにより復旧し瓦礫と呼ばれる破壊された町の残骸のほとんどは敷地外へ運び出され撤去され分別されていた。家々があったところにはコンクリートの基礎があるのみであった。但し三陸鉄道だけはうち捨てられ被災当時の状況を見せていたのが印象に残った。この鉄道の復旧はきわめて難しい、そう思える惨状であった。極めて荒涼としたそんな風景の中で、ガソリンスタンド、コンビニ、ところによってはコインランドリーなどが 仮設の店舗によって営業しているのが目に付く。復興は間違いなく始まっている。また 昆布の加工場立ち上がっていたり、沈下した港に多くの漁船が停泊していたり、漁業関連の復興の芽もあちこちに見える。漁業の復興は思いのほか早いかも知れぬ。
応急住宅だけでなく臨時の町役場などの一応の整備もほぼ終わっているように見えた。多くの人命が失われたことを思うと胸が痛む。また仮設の不自由な生活などこの地が本当の意味で旧に復すのは時間のかかることであることは言うまでもない。ただその第一歩が記されていることに明るさを思った。
応急住宅の多くはその「基準」に正直でありその結果としてこの地の環境条件に照らし、きわめて不十分なものに写った。この地では必須の庇、玄関前の付室などがボランティアの手で付加されているが鉄壁に怪しく取り付けられた姿、松杭で浮かせた床下周辺を木摺や布で覆った姿もいかにも応急処置的である。
木造を旗印にしたものが戸建単位で建つ姿はいかにも寒々しい。壁、屋根、床下6つの面が外気にさらされた状況が過酷な室内を作る。どうして連棟としなかったのであろう。またプレファブメーカーが必ずしも応急住宅の供給に適した業態であるのではないのではないかとも思った。彼等の供給した「基準」に従った住宅も様々な加工を施され何とかその役目をかろうじて果たしているように見える。
その中、板茂のチームによる仮設は飛びぬけて計画的であり、デザインの質が高く、知恵にあふれているものであるように見えた。二階建て、三階建てとし、熱的に損失の少ない計画としてあること、浄化槽、駐車場、集会場など総体を街づくり、都市計画として解いていること、住棟番号などをきちんと誇らしいデザインしていること、庇をテント地によっているなど適応的であることなど (これはここでも事後の施工であることが帰還後に判明したが、これはこれできわめて明晰な答えである) 住み手に出来るかぎりのサービスをする、ここには存在するそうした姿勢は他の仮設にはまったく見られないものであった。板茂の作業は「基準」から一歩も出ることが出来ない思考停止の中に居る建築家、技術者の頭脳に痛撃を与えるものと思う。思考停止の頭脳がこれを痛撃と受け取るかはきわめて怪しいが。
また伊東豊雄の手になる「みんなのいえ」にも住み手を考える姿勢を見た。一見いかにも普通の切妻の木造集会所に見え、実際その通りのものである。ただこの集会所には 誇らしげに煙突がある。中に薪ストーブがあるのだ。
周辺には薪が積み上げられ、薪わりの途中の丸太があちこちにある。火を囲んで暖をとり、火を見つめながら話す、日中はみなで薪わりをする、ストーブの設置はそうした光景をその効能を考えた結果であろう。それが極めて上手く行っていることをみんなの家のたたずまいは示していた。こうした事例を見ながら改めて深く考えること、それを果たすことこそ、われわれの職能であることを思った。

今回の地震はマグにチュード9であった。データによると三陸沖から房総沖の震源域は480キロ×150キロの広域なものでありその横すべり量は平均10メートルほどの膨大なものであり、その結果日本列島は東に大きく引っ張られ、沈降。 牡鹿半島は東に530cm、下方に120cm移動したとされるという。その後の余震のおびただしい数はわれわれをいまも不安にさせている。この規模の日本海溝付近の崩落がその他の地域へ波及、東南海地震などを引き起こすトリガーとなることも学者ならずとも大いに予感させられるのである。

今回見てまわったエリアは基本的に津波による被災地とそれにより建設された周辺の応急時住宅であった。津波に洗われることを免れたエリアは全く平常を保っている。自然災害とはこうしたものである。荒野となったエリアをどうするか、がこれからの大きな課題である。車中、半分は冗談で半分は幾分本気で私は漁業基地、加工場など生業的利用のためのエリアをのぞきこれらのおおくを浚渫し海に戻すことはいかがか?とぼんやり考えた。沈降した水に沈む土地を浚渫し奥側のエリアをかさ上げする、そこに生業的施設エリアを作り、浚渫エリアを海に戻すのだ。
深い山が急峻な谷を作り、河が流れ込む、こうした地形のこれら多くの被災エリアはもともと海であったのではないか、川の運ぶ土砂がたまり作られた平地ではなかったのか。買い上げられ「災害記念公園」となった土地にまたいつか災害を忘れた人々が住み着く、それによるまたの悲劇を避けるには公共が買い上げた土地を二度と人がすむことのない公共の用地=海、とするほかはない、そんな夢を見た。

何より片付かない問題はこのことにより招来したフクシマのことである。フクシマは明らかに人間の手による災害=犯罪である。予測不可能であるか否かはまったく問題にならない。どちらにしての多くの人々を被害者としていまも片付かない、継続している犯罪である。このことを私達は確認しなければならないし、このことにこころから怒らなければならない。東北は必ず片付いていく。しかしフクシマは目途さえ立っていない。
今回のフクシマはこの国が隠蔽されたファシズムを内包していたことを露露、顕在化させたのである。日本の「民主主義」がこれほどのものであったことを確認しながらわれわれは深く考えなくてはなるまい。そして原発の停止と廃炉は必ず行われなければなるまい。
by noz1969 | 2012-04-05 17:08 | 日記
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