登呂遺跡と芹沢銈介邸

以前のことになる。今月の初旬の日曜、登呂遺跡を見た。実は登呂は今回がはじめての訪問であった。竪穴住居についてあれこれ考察?している身にとって小学校の教科書で知っているこの聖地訪問がこんなに遅くていいのであろうか(笑)。恒例の相羽建設の旅行に便乗させていただいたのだ。弥生期の竪穴住居跡の復元であり、隣接の「立派な」博物館も新しく開館して間もないということであった。登呂の集落は稲作をする弥生期のものだ。周囲に水田跡が広く見つかっている。湿潤地である。だから竪穴といっても住居は「穴」ではなく土を盛り土手状にし其の上に屋根を掛けた形である。復元住居の柱梁がチョウナの跡があるものの妙に「製材」でちょっと興がそがれる。が面白かった。
先般訪れた東北一戸の「御所野遺跡」の竪穴は2メートルほどもあろうかと思えるほど深いものであった。時代もさかのぼり縄文期のものであり丘状の土地であった。当時の東北は今と較べ比較的温暖であったとしても厳しかったのではないか。深さは其の証だろう。東海地域の住みやすさをここの竪穴は証している。
登呂のとなりに芹沢銈介の美術館があることをまったく知らなかった。芹沢はこの地の出身であるとのこと。白井晟一の設計だが建築はさして興はそそられない。悪く言えば張りぼてに見える。建物へのアプローチも仰々しく見える。しかし展示されている芹沢の染は面白い。何より良かったのは東京から移築した芹沢の住いである。骨太、上階が張り出す切妻の「モダン」なたたずまい、まさに民芸運動の一翼を担った人に似合いの家だ。戦災で焼けた跡の住居だというが実は東北宮城の登米から移築したものと解説書にあった。築100年を優に超すのだろう。それも元は「板倉」であるという。「板倉」を改修し住いとした、と聞けばどうしても木曾の奥村昭雄の「板倉」を思い出す。奇をてらうことが無くオーソドックスである、がしかし今日的工夫に満ちている、そんな建築を作りたいと思うが難しい。既にあるものを再評価する眼力もまた「創作」であろう。言うまでもないが継続する作為の時間の中に我々もいるのだ。民芸運動のなかにいたひとの思索の回路を思った。
e0079037_15474126.jpg

e0079037_15475681.jpg

by noz1969 | 2011-02-26 16:42 | 日記
<< 貞観地震 愛農高校撮影 >>